無意識日記々

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桜流しから時が流れること十年。

桜流し』10周年。あれから10年経ったのかという感慨と共に、10年でもうここまで来たのか!という宇多田ヒカルのアーティストとしての成長ぶりに驚きを禁じ得ない…

…と書くのはこれ妥当と言えるのか、というのがちぃと気になっていてね。先日1999年『First Love』の頃のフォトセッションと2022年『BADモード』のアルバムジャケットとで年齢差がサッパリわからないツイートがバズっていた事からもわかるとおり老いとは無縁なヒカルさんも、来年40歳でな。

勿論まだまだ先は長いが、若い頃は時間経過が成長だったのに老いた身にとっての時間経過は老化と衰退なのだ。そんな時期に差し掛かってくる時に「アーティストとしての成長」と無邪気に言ってしまってよいものか。

ややこしいことに、「作品」即ち「アート」の出来は成長の一途だということ。『BADモード』アルバムへのリアクションは過去最高レベルで、明らかに宇多田ヒカルが新次元に突入した事を感じさせるが、それはヒカルの“実感”にそぐうのかというと、そこがわからない。それは自らの成長に即した何かだと認識され得ているのだろうか?

例えば『気分じゃないの(Not In The Mood)』はアートのセンスとしては最も先進的で、今までの宇多田ヒカルの実積からしても、人類全体からしても明らかな新境地に足を踏み入れているが、当人の実感としては「〆切で追い詰められて苦し紛れに歌詞を書いたら奇跡が起こった」というのが本当のところではないだろうか。それを私は率先して「ヒカルさんが新しいクリエイティビティを開拓した」と今まで絶賛してきた訳なのだが、当のヒカルさんからすれば、自らの強固な意志で新進性を開拓したなんて実感は全然無いんじゃないかとな。

作品だけをみれば明らかに成長・進化している。しかしそれは「成長しなきゃ」と自分自身に発破を掛けたのとはちょっと違う。〆切に間に合わせなきゃという義務感と使命感が先に来ていたのだ。作品の出来と成長の実感に距離がある。

これがこの先どうなるか。この作品の出来と創作者の実感の乖離がもっと甚だしくなっていくのか、それとも結果をみて「なるほど私も成長してるんだな」と自らに取り込んでいくのか。ちょっとまだわからない。正直、これからのヒカルは自らのクリエイティビティを「制御しきれない」領域に飛び込んでいくのではないかという見立てもしたくなっている。私はね。

今思えば、10年前の『桜流し』の時点でその萌芽はあったのだ。作品の血肉に溶け込んだ他者からのアウトプット(ポール・カーターとの共作)に、未来を予言するような歌詞。まだ藤圭子さんはご存命の頃だし、ダヌくんは生まれていないからね。その激情の爆発力は、人魚で復活するまでの一旦の宇多田ヒカルの創造性の終着点であった。今から思うとね。子が生まれるまで音楽家としての復活は夢物語だったのよ。

そう、この後の流れを予言してるような歌詞なのよね『桜流し』って。『もう二度と会えないんて信じられない』はお母様のこと、『健やかな産声が聞こえたなら きっと喜ぶでしょう 私たちの続きの足音』はダヌくんのことに“なっていく”んだよね。

そして10年。その『気分じゃないの(Not In The Mood)』と『BADモード』では産声と足音が歌声と弦の音に置き変わっている。我が子の成長と、母としてのこれから。いやはや、誰しもが通ってきた筈の道を歩きながら誰も知らない海へと辿り着いていきそうだな宇多田ヒカルの人生は。目が離せないなんてもんじゃないですよ、えぇ。