無意識日記々

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私はヒカル、ぼくはくま。

今日は『ぼくはくま』発売記念日か。ヒカルがジャケットに写っていない数少ないCDシングル。あとは『For You/タイム・リミット』と『HEART STATION』くらいか。

『BADモード』でアルバムジャケットに於ける顔面ドアップの呪縛(?)からヒカルは解き放たれたが、今回のジャケットの肝はヒカルも言うとおり「背景が写ってること」だ。今までは環境云々より「宇多田ヒカルの世界」だったのが、「宇多田ヒカルと世界」に変わった。いやまぁ、『Fantôme』『初恋』の2枚も、同じセッションの他の写真には背景があったりするんだけどね。でもやっぱりジャケットに選ばれた1枚がステートメントだろう。

これをみて、宇多田ヒカルという存在が作品の中で相対的に小さくなった、と解釈するのは私真逆だと思う。寧ろ、肉体から飛び出して周囲にも宇多田ヒカルの影響…というより自己、自我が波及してる顕れだと感じている。つまり背景も肉体も両方含めて宇多田ヒカル。毎度触れるが(ホントな)『気分じゃないの(Not In The Mood)』で周囲の出来事を書くことによって最も宇多田ヒカルを感じさせてくれた。あれが出来るようになってくれば様相はまるで変わってくる、という訳だ。

となると、全く違う反転があるかもしれない。次作ですぐにとはならないだろうが、将来的に、ジャケット写真が「宇多田ヒカルの見る風景」になっていく可能性がある。ジャケットとして想像するだけなら難しいが、単なるスナップ写真としてなら、例えばダヌくんや照實さんや三宅さんや梶さんや…そういった人たちがカメラに向けて笑いかけてる1枚があったなら、それは「宇多田ヒカルの見ている景色」なんだなと僕らにもわかるだろう。勿論これだとジャケット写真にはならないけども。そういう写真にシフトしていく可能性もあるんじゃないかなと。

アルバムのそれらとは異なり、シングルCDには引きの画面でヒカルがポツンとみたいなのは結構ある。『光』とか『Be My Last』とか。たった1曲だと「宇多田ヒカルの世界」に引き込んでしまう意図が薄いともいえる。一方で『FINAL DISTANCE』はアルバム群を凌駕するほどにドアップだ。地上波テレビでのプロモーションを拒否した同曲は、真正面から対峙してじっくり宇多田ヒカルの世界を知って欲しかったという所だろうか。

視点と視野と視座は常に重要である。どこにいて、何の中から何を見出すか。『ぼくはくま』のジャケットはまくまくんだが、後にヒカルは『HEART STATION』(と『Goodbye Happiness』)の時にギガントの頭をとって中に自分が居ることを見せつけた。後付けでしかないのだが、この『ぼくはくま』のまくまくんのジャケットでも、ヒカルの気分の中では自分が着ぐるみの中に居たのかもしれないな。だって「きみはくま」じゃなくて『ぼくはくま』なんだもんねぇ。そう考えるとこのヒカルの姿の見えないジャケットにもちゃんと中の人として写ってることになるんかな。うぅむ、16年前の作品でも、新しい見方は出来るもんだね。