『40代はいろいろ -Live from Metropolis Studios』のテイクはオリジナルのスタジオバージョンと比較するとキーが幾らか下げられているらしいが例によって絶対音感と無縁な私は自分の耳だけだと全く気づかず。幸せな耳だ。
キャリアを重ねた歌手がキーを下げると「高音が出なくなった」とか言われる。今まで出来てた事が出来なくなるのだからその点では「衰えた」と言われるのも仕方がないかもしれないが、声の状態というのは長いスパンで接してると実に奇々怪々摩訶不可思議なものでねぇ。
特にあたしは骨の髄までメタラーなので「ハイトーンボイス至上主義」にずっと接してきたと言っても過言ではなくてな。ライブで如何にフェイクせずに声を出し切るかがライブ全体の評価を左右するまでになることを沢山みてきた。ロブ・ハルフォードがキメのハイトーンにエネルギーを残すために他のパートを思い切り省エネで歌うのをみて「これが需要と供給ってやつか」と妙に納得したのも随分昔の話なのよさ。
そんな歌ばっかり聴いてきたんだが、高音って、確かに平均すると年齢と共に出なくなっていくものではあるものの、それはあクマで平均の話でしかなく、個々のシンガーの事情をみるとそんな単純な話でもない事がわかる。30代の頃はもう20代の頃の高音は出なくなってて「早くも衰えたな~」とか思ってた人が40代50代で復活したなんて例もある。長いスパンでみないとそれが本当に「加齢による衰え」かどうかなんてわからないのだ。
折悪しく、なのかどうかはわからないが、今回ヒカルは『40代はいろいろ♫』という年齢を前面に出したタイトルの企画でキーを下げた歌を披露した訳で、こうなると絶対音感を持つライトリスナーが聴いた場合、「え、宇多田ヒカルってもう40歳なの!? あら歌のキー下げてるわ。年齢には抗えないのね。」みたいなことを言われかねない。
まだ私そう言われるのを実際には見たことないから今のところ杞憂でしかないんだけれども、そう言われる可能性は結構高いように思われる。言いたいことを先に言ってしまうと、そういった発言を目にしても争わないようにしてほしい。ライトリスナーのその場限りの感想である。責任も何もない。実際にキーを下げて歌っているのだから事実は事実だ。そういうアレンジにした理由が本当は「声が出ないから」ではなく、例えばギターのチューニングの都合とか、そのキーでしか出ないトーンがあるとか、その他の音楽的な話だったりするかもしれない。ただ、そういう話をしたとしても「そんなものは体のいい言い訳だ」とかって言われたら結構どうしようもない。反論するだけ徒労だろうね。
長いスパンでみないとわからないし、キーを下げるのは声が出ないからではないかもわからない。声はわからないことだらけなのだ。どれだけ節制して毎日鍛錬を欠かさない人でも衰えるときは衰えるし、暴飲暴食を重ねるヘヴィスモーカーでも60代にして絶好調!みたいなこともある。個々の努力が足りないとかそういうことでもないんですよね。個人差が大きく、様々な事情が絡み合う。幾ら我々が熱心だからといって未来は結局わからないのだ。
キーを下げてるとか高音が出てないだとかいうのを気にしない為にすることはシンプルだ。くらべないことである。歌を聴いてる時に自分の記憶や知識を持ち出してそれを参照しながら耳を傾けるからややこしくなるのだ。オリジナルのスタジオバージョンの幻影を携えたままで今の歌を聴くだなんて、あなた今の恋人とデートしてる時にいちいち昔の恋人のことを思い出してあれやこれやと比較するタイプなの?? いやいや、ただ目の前の歌と向き合って今聞こえてきているのは何なのかという所に気を配っていればそれより外の何かと比較する機会も必要もないし、歌を楽しむというのはそういうことだと思うのよね。その時その場所その瞬間に夢中になれる歌とたった今接していれば、過去や未来や他の場所のことなど気にならないわ。
それに、そもそもヒカルさん、一昨年収録の『Hikaru Utada Live Sessions from Air Studios 2022』実施数日前に一切声を出せなくなっていたのよ。そのスタジオライブを乗り切ってそこから昨年はコーチェラに出演して南青山でシークレットライブを敢行、夏休みは立て続けにテレビで歌ってそしてこの『40代はいろいろ♫』まで来てくれたのだ。我々の誰が思うよりも入念に声のケアをしてくれてるよ。この丁寧極まりない歌い方には深く心が籠もっているように私は思うのだけど、歌を聴いてなにをどう感じるかはひとりひとりだから、そこの自由はいちばん大事にしなくちゃいけないわね。皆さんひとりひとりの感想を大切にしてね。