無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

a sage's collage of ages

で。その『Automatic』冒頭の歌詞なんだけども。

『名前を言わなくても

 声ですぐ分かってくれる』

こうやって今振り返ると、あれ?これってもしかして「音楽家姿勢宣言」としても機能してる?? つまり、名前が売れて有名(“名が有る”と書きますね)になってそれに価値がある人になるより、声~歌声や音楽そのものを耳にして私だと思って貰えるようなそんな音楽家を目指しますというかそもそもそういう人なんですという、そういう宣言だったりもする??

後に『BLUE』で

『栄光なんて欲しくない

 普通が一番だね』

と歌っていたし『君に夢中』では

『栄光には影が付き纏う』

とも歌っていた。栄光と大体同じ意味の言葉といえば「名誉」、誉れ有る名だ。富、名声、この世の総てをそこに置いてきた…とかなんとかどこかのヒゲ生やしたおっさんが言ってたけど、ヒカルの総てに名声はそんなに重要じゃないみたい。

勿論ヒカルはそんなつもりでこんな作詞をしたんじゃないだろう。しかし、その後の生き方に再定義されるのが詩の、歌詞の真骨頂であるというのは宇多田ヒカルの歌詞世界の基本中の基本だ。自己予言的な性質を持つものなのだ。ヒカルの生き方を振り返った時に、名前を遺すより声を、歌を、音楽を覚えていて欲しいと祈ってきた事がこの「最初の歌詞」に後から意味を植え付けていく。それが言葉の不思議でもあり本来でもある。

なので、その、「名誉」という言葉ではなく「栄光」を二度も使ってるのは何か示唆的な気がしていてな。言葉に「光」の文字が入っている。「光が栄える」という字面は寧ろヒカルにとって喜ばしいものなようにも思えるこの言葉。しかし一方で件の『BLUE』では『遅かれ早かれ光は届くぜ』とも歌われている。「夜明け」のモチーフもまた、「光」が希望として機能していることの顕れだ。この二面性も更なる未来で回収される気がしている。『君に夢中』で使われたばっかだしな。

そういえばその『BLUE』では音楽は『希望が織り成す』ものとして描かれている。ならば『全然なにも聞こえない』というのは絶望に他ならないだろう。暗闇と光、希望の音楽と絶望の無音。その狭間のどこかにある「栄光」。迷うヒカルと最初の所信表明。あれから24年とか17年とか経ってるけど、まだまだ物語は途中も途中、『90代はここどこ?』まで見据えるなら全然前半いや序盤とすらいえる。ここからもずっと「わからない」を大事にしていこう。そのうち『時間がたてばわかる』のだから、ね。