無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

(「()。」の所が見所な話)。

あーやっぱつまんない話を通らないと前に進まないか…気も進まないけどやるか。

Spotifyインタビューでヒカルは全く相反する事を述べている。

「総ての感情は同じ」

「総ては記号」

この2つがどれだけ掛け離れているかというと「矛盾すら生ぬるい」とでも言いたくなる程だが、ヒカル自身からすれば同じ物事の表裏なのだろう。即ち一体である。

そもそも「総ては記号」とは明確に誤りだ。記号には記号ならではの限界があって、その最たるものが「ある記号はその記号自身の記号になれない」という大原則だ。

例えば、数学で「自然数をnとすると」みたいな“断り書き”をよく目にするが、ここで自然数に記号nを割り当てるのは単なる慣習によるもので、別にnでなくても何でも構わない。断り書きなんだから「自然数を△と置く」でも「自然数を“ゑ”と書く」でも、なんだったら「自然数を貴方の左手の親指の指紋痕とする」でも構わない。いちいちスタンプ押すの面倒だけど、なんでもいいのだ。平面上で無くてもおにぎりでもラッパの音でも構わない。ちょっと不便だけどね。

ただし、「自然数自身は絶対に使えない」のだ。つまり、1や2や3や2023や65536や、そういうのは絶対に無理なのである。話の途中で、特定の数の話か自然数一般の話か全く一切区別がつかなくなるものね。

そういう意味で必ず記号には限界があり、つまり常に記号には「記号の外の世界」が存在しなければならない。(その“外の世界”が“自分自身の存在”であるところがいちばん興味深いのだけど)。故に「総ては記号」は明確に誤りである。

だが、そう語った時のヒカルの持っている“感覚”は痛いほどよくわかる。物事を見る目の抽象度を上げていくと、異なる対象たち総てに共通する概念に身を置くようになっていき、「あぁ、なんだみんなおんなじなんじゃん」と呟くようになる。本来、例えば「甘さと重さ」とか「長さと痛み」とかは「較べる物差しが違うんだから比較のしようがない」組み合わせなのだが、抽象度のコントロールに長けていくとそういった異なる属性同士でも同じ物差しで見られるようになる。更に長じればその物差し自体も抽象化出来ていく。でも40歳でこの感覚をキープ出来てるってヒカルさん脳が若いねぇ。

「記号の抽象化」というのは元々「あなたと私の感覚が同じかどうかはわからない。だが、それが何をもたらすかについてはあなたと話が出来るはずだ。感覚の差異については置いておいて、目に見えるものや耳に聞こえるものを使って話をしよ。う」という時に現れるもので、最初に「私とあなたで感覚や感情が同じかどうか知ることを諦める」所からスタートする。そうして人類は百数十年やってきているのだが、ヒカルさんはナチュラルにそこを飛び越えてきているのだ。番組の前半と後半に別れて語られている内容なので特に論われる事はないだろうけれど、ここをこうやって押さえておけるかどうかで今後の理解度も変わってくる。自分でも「書いててつまんねー話だな」と思っているけど、そうね、10倍から100倍の字数をかければもうほんのちょっとだけ面白く出来たかもしれないな…うむ、そんな益体の無い反省をしつつ、曲の話に戻りたいぞ早く。