無意識日記々

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どの私が本当の

斯様に「なんとかリアリティ」の技術発展は盛んだが、ではその真似される方の「リアル」とは何なのかという話はなかなか記事になっていない(=一般の(って何なんだろな)リスナーに届いていない)。

よくあるのが「まるでライブハウスやコンサート会場に居るみたい」という比喩だ。それこそがバーチャル・リアリティの真骨頂だみたいな感覚で。しかし、それホントに“実際に”ライブ会場で聴ける音なの? 違うよねぇ。

特にホール以上(アリーナやスタジアム)では良い音というのは滅多にお目に(お耳に?)かかれない。ドラムやギターの音が大きすぎて歌が聞こえづらいとか、残響のせいで何喋ってんのかすらあやふやだとか、そんなのばっかである。数こなせばそういうのの少ない良席に巡り会える事もあるけれど、みんなそこまでコンサート行かないよねぇ?(知らんけど) これでもこの数十年で凄く改善され進化してるんだけどね。

なのでそういう「現実」を忠実に再現してもマニア以外にはニーズが無い。あるのは「もし特等席で聴けたら」という特殊な設定の場合のみだろう。なのでそう書いた方がいい気もする。

これが総て生楽器ならそれで済む。立体音響の位置情報も十全にその価値を発揮できる。しかし電気楽器、電子楽器が絡むとどうなるか。それらはスピーカーから出る音が「最初の音」だ。それは必ずしも演奏者の居る場所から出る音ではない。それを真似してさて何がリアルなのか?を考えるとよくわからなくなってくる。

生楽器のドラムサウンドも、スピーカーで増幅された場合の「リアル」って、何? 右端のハイハットと左端のスネアドラムの定位をスタジアムクラスで再現したら例の「巨人の演奏」になってしまう。迫力はあるだろうけど、これは「リアル」なのだろうか?

…とかとか様々な懸念はあるが、多分我々が関心があるのは「如何にヒカルの歌声を身近に感じられるか」だろう。まるで目の前で宇多田ヒカルが歌っているように感じられたらそれがバーチャル・リアリティのいちばんの魅力になる筈だ。極論すれば、そこさえ達成されていればバックの演奏がどうなっていようが構わない。

それを考えたときに、さて今回の360RAと以前の3DVR、どちらがよりヒカルを身近に感じられただろうか? 勿論両者が組み合わさればいちばんいいのだが(って何度も言ってきたから言うの飽きてきたな…)、現行片方ずつしか実現していない。…そうね、まぁそこの感想は各々に委ねるか。

だがマニアは先に踏み込む。ヒカルの姿を目の前に身近に感じるのも勿論素晴らしいが、「脳内を覗けたらもっといいのでは?」と考えてしまう。危ないヤツまっしぐらだが、「ヒカルの思い描いたとおりのサウンド」が聴けたらそれが一部実現する事になると解釈してもいいよね、と。

なのでそこから先はヒカル次第と言いますか。ヒカル自身の感じる「リアル」とは何なのか。そしてそもそも、ヒカルは「リアル」を伝えたいのかどうなのか。ここは訊いてみないとわからない領域だわね。

目下、私にとっていちばんの「宇多田ヒカルのリアル」は『気分じゃないの(Not In The Mood)』だ。実際にヒカルの私生活に起こったことをヒカルの書いた歌詞と曲で、その歌声で表現して送り届けてくれたもの。徹頭徹尾宇多田ヒカルが染めた何かで出来ている創作物。脳内や肌触りやヒカルが見た景色や感じた感想や感情や、そういったものが総て込められていて、極端にいえば単に私生活のドキュメンタリーを映像化したものよりもずっとヒカルの「リアル」がそこにある気がする。「リアリティ」とは斯様に複合的で多岐に渡り豊かなものだ。そしてこの歌をライブで演奏してくれて自分がそこに居合わせられたとしたらそれこそがもっともリアルな宇多田ヒカル体験になる気がする。いや勿論、息子や友達たちみたいにヒカルと目を合わせて会話してる人々の感じる「現実の宇多田ヒカル」像には敵わないのですけどね。いちリスナーとしての話です。

そこまで踏まえた上で「バーチャル・リアリティ」とは何なのかと考えたときに、いやこの道は先がまだまだ長いな!と痛感したのでありましたとさ。何もかもまだ始まったばかりなのですわ。