ドラマタイトルの「君が心をくれたから」と主題歌の歌い出し『君がくれたのは何色でもない花』を合わせると
「心」=『何色でもない花』
になるのは、既にヒカルがボイスコメントで言及している通り。つまりこの歌は心の歌だ。
その歌詞の中で『心』が出てくるのはただ一度。
『私たちの心の中身は誰にも奪えない』
ここだ。これは恐らく、ドラマの中で斎藤工演じる日下が放った台詞と対を成しているのだろう。文字起こししてくれてる記事があったから引用すると。
「受け入れるのなら、彼(太陽)の命は助けます。奪わせてください。あなたの心です」「奪わせてもらうのは五感です。人は五感を通じて心を育んでゆく生き物です。いわば五感は心の入り口。これから3カ月かけて、あなたの五感を奪わせてもらいます。見ること、聞くこと、におい、味、そして誰かに触れたその感触、それを一つずつ。この奇跡を受け入れるのなら、朝野太陽くんを助けましょう」
https://www.cyzowoman.com/2024/01/post_463173_1.html/amp
はぅ、よりによってサイゾーウーマンの記事だったとは。まぁいいか。
彼は(要約すると)
「あなたの心を奪う為に五感を一つずつ奪う」
という意味のことを語っている。記事にもあるように、これには違和感を持った人が多かろう。確かに、心がそこにあることを感じたり伝えたりといった事にはお互いに五感が無いとならないが、五感を奪われたからといって心が無くなってしまうわけではない、というのが人の素朴な信念だろうから。ただ、この斎藤工の台詞はもしかしたら何らかの伏線かもしれないので、ここは判断を保留したいところだ。
一方、『何色でもない花』の歌詞では、『心の中身は誰にも奪えない』と言い切っている。ここにドラマの物語内の事情を加味するなら「たとえ五感を奪われたとしても」という条件節が加わる事だろう。何度も強調してきた事だが、今回の歌詞は本当によくドラマの物語に寄り添っている。
しかし、『だけど』とこの歌は続く。
『自分を信じられなきゃ
何も信じらんない』
ここのフレーズは、歌全体の頂上のようなもので、これに辿り着く為にこの歌が構成されていると言っても過言ではないのだが、なら何故そんなにまでここを強調したいのかといえば、リスナーの間に「自分を信じ切れない症候群」が蔓延しているとみているからだろう。大事な事だけど蔑ろにされがちだから伝えたい、というわけだ。
「自分自身の存在を見失う」というのは本当によく起こる。かく言う私も、毎日この日記を書きながら「ここの1人目の読者は私。まず私が読んだ時に楽しめる日記を書いて。」と言い聞かせ続けている。言い聞かせていないと、途端にその本来の目的を見失ない、誰の為に書いているのかわからない文章が出来上がっていったりするので。(大抵、そういうセンテンスはボツになっている)
特に何のストレスも外圧も掛っていない状態であってもそうなのだから、人からの期待やら中傷やらが沢山あったらどちらにも反応し過ぎてすぐに自分自身を見失うだろう。19歳の頃のヒカルはこんな風に綴っている。
『子供も大人も、鏡に映る自分を見るのが好きだ。
映されようと夢中になり自分もまた鏡であることを忘れれば、
人は静かな空間をもてあまし嘘しさを覚える。』
『Deep River』PVの散文詩から、だ。
(いつもアクセスしてすいません: https://ameblo.jp/smile-smile-smile-world/entry-11610578954.html )
そうなのよね、すーぐ忘れちゃうのよね。目に映るものにばかり心を奪われて(つまり、五感から入ってくるものにばかり心を奪われて!)、それを受け止める自分自身の存在が無くなってしまう。
これは、ポジティブな感情にもネガティブな感情にも起こり得る事だ。人から讃えられてその評価にばかり心を奪われているとそちらのことに気を取られ過ぎて自分の目で物事を判断する事を怠ってしまう。嬉しいことがあって喜び過ぎてはしゃぎ過ぎちゃう時もそうなる。ちゃんとその都度自分の感性で噛み締め直してどういうことなのかよくよくみてみないといけない。
ネガティブな感情による自己喪失は切実だ。人はあまりに強いストレスや苦痛を感じ過ぎると、そこから逃げ切る為に遂には心の中に(これは“外に”と言った方がいいのかもしれないが)、自分以外の別人格を作り出す。多重人格とか精神分裂とか呼ばれていた、今では解離性障害と呼ばれる症状が生起するのだ。自分自身の感覚を感じ続けていては苦痛とストレスで狂ってしまうような、そんな強烈な境遇。キツイだろうな。
これらから連想されるのは、やはりヒカルのお母さんのこと。ヒカルは彼女が亡くなった当時、彼女の生前の病状について
『症状の悪化とともに、家族も含め人間に対する不信感は増す一方で』
https://www.sonymusic.co.jp/Music/Info/utadahikaru/from-hikki/
という風に綴っている。この『人間に対する不信感』は、最終的には(或いは最初から)圭子さん自身に向けられていたのではないか。自分自身に対する不信感が行き着く先がどんな事になるのかをヒカルは知り尽くしている─ならば、だからこそ
『自分を信じられなきゃ
何も信じらんない』
の一節はここまで切実に響くのではないだろうか。自分自身への不信は世界総てへの不信と同義なのだ。何をするにもまず自分を信じること、自分自身の存在を常に感じる事から始めないと、仕舞いには大変な事になっていく。そう自分自身で自戒を続ける為に、その事について歌った歌がこうしてこの世の中に生まれ出でた事は率直に喜びたい。僕らは『何色でもない花』を聴く度に、自分自身の存在を思い出せるようになったのだ。これは、とても大きな宝物だと思うよ。それはきっと、誰にも奪えないだろうね。