無意識日記々

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怖く、ないの?

『予期せぬ愛に自由奪われたいね』だとか『自由でもヨユウでも一人じゃ虚しいわ』だとか歌って自由より愛を重んじるヒカルさん。その性格だと他人に時間を取られる子育てに向いてるんじゃないかと思うし母親になれてよかったねぇとも思うが、どうしてここまで自由の方を「目の敵」にしたいのだろうか? 自由を勝ち取る為には闘争が必須だからか? 結構わからん。

自由の何が大切かって、発想の自由だと思うのだ。やりたいことが何でも好き勝手できるという状態より、寧ろ、精神自体が自由で何にも左右されないという事。

自由を侵すのは抑圧であったり暴力であったり束縛であったりする。そこに生まれる恐怖と不安の感情が精神を萎縮させるのが元凶だ。何が出来るか何が出来ないかというのは物理的な諸条件が整わないと無理なのであって、幾ら君は自由だからといっても自力で時速100kmで走れる訳でもないし空を自力で飛べる訳でもない。一方で、何を思えて何を思えないかは精神の諸条件が整わないと無理な話なのだ。勿論、非常に強靭な精神を持っている人はどんな状況に陥っても精神の自由を奪われる事はないけれど、殆どの人の心は中途半端で弱い。しっかりとした環境を得ないと自由な精神は得られない。

我々は知らず知らずのうちに発想の自由に制限を設けている。そのことに気づかずに日々を送っている事も多い。それに気づかない事自体、精神の自由を奪われている証左なのだ。

恐怖と不安の感情は人の心を萎縮させる。そうして精神から自由を奪い新しい発想が生まれるのを防ぐ。酷い目に遭った人に対して「どうして逃げなかったのか」と問う人がいるけれど、その人もどこかで想像力を抑制されている。恐怖に苛まれた精神にとっては逃げるとか抗うとかいう発想そのものが到れない境地であることに想像が及ばない。人を暴力で抑圧してまず精神の自由を奪えば、身体的拘束に頼らなくても逃げ出されはしない。発想を奪うことが自由を奪うことだ。

ヒカルさんは、そこのところをどう思ってはるのかな。愛の尊さを説くのが主軸なのは『First Love』という名のアルバムでデビューしてきた以上間違いのない所なのだけれど、精神の自由が無ければそもそも新しい音楽を創造しようという力も生まれてこない。どんな状況にあっても新しい発想や着眼点を発見できるのは落し物シリーズでみられる通りなんだけど、人の心や、時には脳自体を物理的に萎縮させる恐怖の感情についてどう思っているのかは少し訊いてみたい気がしている。あんまりそういうテーマについて歌わないんだよね。何かにつけて精神の自由を希求する歌詞を歌いたがるメタラーとしてはそこらへんが気になっているのでありましたとさ。