無意識日記々

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「NHK MUSIC SPECIAL」を観た感想




昨夜の「NHK MUSIC SPECIAL」45分、勿論CM無しでその上オープニングエンディングもなしな上途中VTRを挟む事もなくひたすら問答と歌を交互に繰り出すだけのシェイプアップされた構成だった。何を見せればいいのか、限られた時間で最大限の満足感をどう与えられるか、制作陣はよくよく知ってるわね。総合テレビでの放送だったけど、どちらかといえばETVっぽい演出手法だったかも。


と細かい差異を指摘するよりも何よりも、この全体を覆う「NHK伝統の演出」の数々にちょっと怖くなってたというのがメインの本音でね。物心ついた頃から、教育テレビをずっと眺めていた幼稚園児の頃にみたものから全く変わっていないカメラアングル、編集点の取り方、笑いや拍手の入れ方、人の配置、アナウンサーの役割、何もかもがNHK的で、ザッピングの中で通り過ぎるだけの一瞬でもそれとわかるの、なんだろうな、今は編集デジタルだろうに、アナログにテープ切り貼りしてた頃と変わらないの不気味で仕方ない。流石に40年前と同じプロデューサーが未だに現役ってこたないよな? それだと更に怖いけど。


だなんて引きの悪い話から始めているのは他でもない、そのNHKの演出手法の根幹である「真実すら虚構にして放送する」という“信念”があまりに宇多田ヒカルのもつ「いつでも本気」のポリシーと相反しているからだ。人が本音を話す時ですら台本や脚本に沿わせて、意のままに画面に映す。まるで人間一人々々が白黒のチェスボードの上の駒みたい。


そんな中でもその演出に飲み込まれない宇多田ヒカルは流石だった。これが言いたかった。


当たり前だが、半世紀どころでない歴史を誇るNHKの呪いに一般人などなす術もない。私もあの場にいれば駒にされていただろうな。だが、ヒカルの「自分のリズムでいこう。」は崩されなかった。どれだけ寄りの絵を取られようが、自在な編集点に切り取られようが、ヒカルの「今」は崩さない、崩れない。そのリアリティはあたかも小津作品でひとりだけ生身の人間として異彩を放つ杉村春子のようだったわ。完璧な操り人形と化す笠智衆もまた素晴らしいのだけれども。


嗚呼、ついでだから補完しとくと。ヒカルが「幸せとは?」という質問に対して答えた「今」というのは、別に「41歳の自分」とか「こどもと過ごしている2024年現在の生活」とか「NHKの番組収録に参加してるこの状況」とかの意味ではなく、「今を感じているこの瞬間」のことを指していた、筈だ。未来への希望や展望や絶望だけでも、過去への憧憬や懐古や後悔だけでもない、それら総てを包含するたった今という瞬間を味わえてる事自体を感謝する、という感覚のことを指しているのだと思った。かなり抽象的な回答であった。


そうなのだ、ヒカルは、「これから撮れ高を切り貼りされて言ってないことを言ってるかのように編集される」テレビ番組の収録という人工的な時間の流れの中にあってすら「今」を見失わなかったのだ。『True Secret Story 』とか『今の私』とか『SONGS』とか『仕事の流儀』とかで大変お世話になっている局なのだが、一方で看板の紅白歌合戦には一度しか出演していなかったりで、正直距離感の取り方が難しい場所だと先だっては思っていたのだが、全く全然大丈夫だったね。ヒカルはヒカル。どこにいたって私は私なんだから─と、本日発売24周年を迎えた、発売と同時にミリオンセラーという記録を作りながら『SCIENCE FICTION』に収録されなかった名曲『Wait & See 〜リスク〜』の一節を引用して、視聴後の感想の総括に変えましょうかね。歌も問答も、素晴らしかったですよ。