無意識日記々

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TraveledSoFar,Me led,SheLaughs

GBHの後半でリズムを取り戻した光が、そのままtravelingに雪崩込む。その時の音のスケール――の、"小ささ"にちょっと驚く。初めて聴いた時、大袈裟でなく"宇多田ヒカルが一段ステップを上がった"と感じたあの確信性(誤字ではない)、過去をきっちり踏まえているという意味でPopMusicの未来を感じさせたあの周囲への"巻き込み力"が、まるで箱庭かジオラマのような出来事のように思えた。

それ程までにGBHのスケールは大きい。ダイナミックなHEART STATION ALBUMから更に大きく羽ばたいた楽曲なのだから当然といえば当然なのだが、18歳と27歳の9年間の差は大きい。お陰でトラベのイントロを初めて"かわいい"と思ってしまった。いじらしい、というべきかな。

しかし、それでもなお楽曲が"負けていない"のが何とも不思議だ。楽曲のよさというのはその着想や発想や経験に裏打ちされた妙味の分厚さによるスケール感と直接は関係ないのだろうか、あの絶妙のフックラインはシンプルであるが故に人々の心を捉えて離さない。

それに加え、この曲に対する光のパフォーマンスには"慣れ"があるし、観客の方も大幅に"馴染み深い"。こういった要素は、演奏会では絶対的な意味合いをもつ。どれだけその日その夜に絶品の演奏を披露していようが、予め愛されていた曲の存在感にはかなわない。いっこく堂が昔"やっぱりまず有名にならないとダメだな"と嘆いていたが、その意味で勝負は会場に来る前に決まっている。そもそも、そういう楽曲がないと人は足を運ばないもんね。

トラベの演奏に感じたタイニーな可愛らしさと人々に愛され支持され続けてきた9年間の歴史の分厚さの奇妙な同居は、今の光にもそのまま当てはまる。如何にも洗練された大人の女性のスラリとした佇まいの中に見せる昔と全然変わらない茶目っ気のある悪戯っぽい笑顔。こいつは変わってんだか変わってないんだかさっぱりわからない。大人になったね、とも声をかけたくなるし昔と変わらないねとも言いたくなるし。これ、30になっても40にもなってもそれ以上になっても変わらないのだろうか。お婆ちゃんになってもあの悪戯っぽい笑顔に出逢えるのだろうか。長生きしなくっちゃね。


途中で演奏が止まりブレイクが入るのがまたいい。これは一曲目からひと続きに演奏されている為余計に効果的だ。特典映像をみると、それもまた光が率先して出したアイディアであろうことを伺わせる。

光は口が裂けたらまともにしゃべれないだろうが、誰でもやがな、もとい、口が裂けても云わないだろうが、GBHPVに映る自分をみて"何コイツちょーカワイイ"と思っている筈である。絶対思っている。なぜなら彼女はディレクター・プロデューサー・監督だからだ。監督者が被写体に心底魅力を感じていなくて誰が作品に感動し得ようか。ブレイクが決まった瞬間にヒカルは自分の姿が皆にどううつるか、自分の歌声がどう響き渡るかしっかり把握しているのだ、総監督として。

それでも舞台の上で唄う事で初めて発見することもある。私はそれが何かはわからなかったが、あの表情は「あ、こんなこともあるんだ」と感じた時の顔だった。じっくり顔のアップを見ていられるって、いいねぇ。(結局まぁそれである)




――思えば遠くまで来たもんだ。私は導かれ、彼女は相変わらず笑っている――