無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

音楽と接する習慣を植え付ける術

今まで当欄で何度も触れてきた通り、音楽メディアの推移・変遷は音楽の質そのものを変えてきた。蓄音機がレコードに、レコードからカセットテープ、CDにMDに…とより便利に扱い易くなっていくにつれ、手にとる人、層も多様になっていった。

その昔PANTERAの中古CDを買おうとした時吃驚した事がある。CDの盤面がこれでもかという位に傷だらけなのである。普通ピカピカで鏡の代わりにもなろうかというあの銀盤がくすんで何も映さない程だ。しかし注意書きには1曲を除き正常に再生できるという。果たしてそうだった。如何にCDというものが傷に強いものなのかを痛感した。

PANTERAといえば恐らく史上初めて、ボーカルが9割以上咆哮のみで押し切るスタイルで全米1位をとったバンドである。そして、このバンドはアナログレコードなんか繊細過ぎてとても扱えない(多分すぐ割ってしまう)ワイルドな人たちに「音楽を買って聴く(そして暴れる)」という習慣を持ち込んだのだ。もちろん、それ以前から音楽を聴いて暴れて楽しむ層は存在していたのだが、CDの普及からPANTERAのブレイク(90年代初頭)という流れはそういったクラスタをメジャーに押し上げたのだ。

日本でもヘヴィロックやヒップホップはそれなりに普及したが、結局アンダーグラウンドのまんまな印象だ。ヒップホップを取り入れたポップス(というかそういうサウンドを纏ったフォークだな)はかなり流行ったが、別にその音楽自体の裾野が広がった訳ではない。

日本ではその代わり、CDシングルの普及によるカラオケ常習者が増えたのが90年代は大きかった。今の若い人達はピンと来ないかもしれないが、昔はカラオケといえば中年男性が楽しむもので、中高生が参入してきたのは"カラオケボックス"という"イメージチェンジ"のお陰であったのだ。

そうしてカラオケで歌う習慣が爆発的に普及すると今度は"カラオケ向き"の楽曲が大量生産されるようになる。聴く為より歌う為の音楽が売れるようになった。日本の、特に90年代のポップスがサウンドはアップデイトされてもどこまでも子供っぽいのは、そういった背景が大きかったのだ。

宇多田ヒカルは、そういった風潮の中で登場した。歌をカラオケボックスで歌う習慣のない少し年齢の高い人達にも鑑賞に耐え得る音楽として、一方で若い人たちにもAutomaticとFirst Loveはカラオケで歌いやすかったのでウケた。いろんな層が混ざり合ってビッグヒットに繋がったのだ。

その後は御存知の通り、本人ですらナマで歌うのを難儀するような難曲を遠慮なくヒカルは作り続けてゆく。Flavor Of Lifeなんかは例外的に少しばかり歌いやすいけれども。

はてさて。では今度ヒカルが戻ってきたときに、その音楽は、その歌は、どこでどのように聴かれ、どのように歌われるのだろうか。或いはそれを、どう想定して曲を作るだろうか。時間が経過するにつれ、音楽との接し方はますます変わるし、ひょっとしたら20年前にPANTERAが腕白坊主たちに音楽を聴く習慣を与えたように、まだまだ生活の中に音楽が浸透していない層に切り込める音楽が生まれてくるかもしれない。そんな時代がきた際に、ヒカルがどんなポジショニングを取っているかが楽しみだ。