無意識日記々

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Prisoner Of Conscience

「あざといもの」が最近好きである。「これこれこういうのだったら気に入るんだよね?」というノリで狙って作ったもの。昔は狙って狙い通りの効果を上げてどや顔されるのが鼻についたものなのだが、今は素直に作り手の狙いにハマる事が心地よく、抵抗せずに楽しめるようになっている。歳とったのかな〜。それとも、昔が力みすぎていたのか。

ウチの携帯プレーヤー君の今年の再生回数1位は目下嵐の女神、そして極僅差で2位がCan't Wait 'Til Christmasだ。これからの季節、CWTCの再生回数が益々増えるだろう事を考えると、2年連続でウチの再生回数No.1はCWTCになりそうだ。ホントこの歌が好きなんだねぇ私。

この曲、光本人が"カマトトぶった"と公言するように、はっきり言ってわざとらしい。冬場にこういうピアノでこういうメロディーをこういう風に歌ったらみんなこんな反応をするだろうな、という展開がよくよくみえる、予想のつく楽曲である。ヒカルにしては珍しいかもしれないが、Popsとしての手法はありきたりで、何のスリルもない。

一昔前だったら、私は今みたいにこの歌を素直に楽しめていなかったかもしれない。宇多田ヒカルといえば突き刺さるようなEmotionをぶつけてくる曲、むびのんや中毒やForYouやビマラのようなのをシングルにしてくるチャレンジングなアーティストなんだから、聴いたらみんなが喜ぶのがわかりきってる曲をわざわざ作って歌うなよ、と。

なぜ、そういった、狙いすました、あざとさを感じさせる作風を忌避していたかといえば、そこに成長の契機がないからだ。想定して想定通りのものを作るその実力が既に担保されているのだから、ある意味当たり前の結果であってスリルがない。そういう風に考えていた。

今は、目の前にあるメロディーが美しいならそれはそれでいいじゃないかと思うようになった。確かに、ずっとそんな事を続けてれば何の発展も生まれなさそうだし、飽きて衰えていく事すら必定かもしれないけれど、今、いい歌が生まれたのだから余計な事を考えずに祝福しよう。そんな気分。

はて、妙な既視感を感じたな、と思ったら、なるほど、この歌の歌詞はそういう事を歌っているのである。

『人はなぜ明日を追いかける? 大切な人を大切にする それだけでいいんです』

未来に保証を求めず"今"の煌めきを目一杯浴びていた"光"と同じ人生観は、変わらず光を貫いている。いつのまにか、私もそれに影響されてしまったのかもしれない。過去に囚われ過ぎず、未来を徒に不安がる事もなく、今の煌めきを大切にしよう。そういう見方が出来るようになれば、CWTCに感じるあざとさ(といってもほんの少しだけどね)も愛せるようになる。そしてなるほど、掛け値なしに、美しく可愛らしいメロディーである。いいこいいこ。

光が自分のパーソナリティを前面に押し出した曲より、一歩引いた作風の方が一般的なウケはいい。Flavor Of Life Ballad Versionはその代表例だが、私のような毎日こんなBlogを書いている人間が、マニアックでパーソナルな楽曲ではなく、浅く広く受け入れられやすいCWTCを好んで聴いているというのは、外から眺めたら少々滑稽だろうな、と些か愉快な気分になってくる。なんか一周まわってあらためてPop Singer宇多田ヒカルのファンになりなおしたみたいな。勿論宇多田光さんが大好きで愛してる事に微塵も変わりはありませんけどね。