無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

あっさりこってりの何となく続き

ヒカルはかなりの部分自分に言い聞かせて、Popであろうとしているように見える。これは、確かに判断が難しい。強いられているんだ、という所にまではいかないまでも、どこか恣意的な感じが漂うのだ。

人によっては、もしかしたら曲をただ作るだけでPopになっていくようなこともあるかもしれない。何も意識しなくても、好きなように作ればPopになる、という。そういう人が実際に居るかどうかは知らない。

考え方次第。もしかしたら、そうやって「"Popであること"を自らに強いること」自体がPopさの原因なのかもしれない。何だか再帰的な定義だが、そう出鱈目な話でもない。もう何度も引用しているか、3年前の鼎談で渋谷陽一がPop Musicを"他者の音楽"と呼称したのが未だに印象に残っている。他者の目を(耳をか)意識して初めて音楽にPopness(そんな英単語あるんだろうか)を付与する事が出来るとするならば、Pop Musicとは定義によって自らを強いる事が必須となってくる。

ヒカルは、どうか。これも何度も言ってきたように、ヒカルは"Automatic"という名の曲でデビューしている。意味するところは、自発的な、自然の、いつのまにか、本当の、恣意的な、どうしようもない、そんな感情である。何かを自らに意図的に強いるというよりは、抗い難い何かに突き動かされるような。これも何度も引用しているが、Passionの時のインタビューでヒカルは、(辛い事や苦しい事もあるだろうに、目一杯稼いで結婚してそれでも尚)何故音楽を作り続けるのかという問いに、『止まらないんだよ』と答えていた。鮭の産卵を例えに出していたあの時のインタビューだ。これ以上に"Passion"を表現した言葉を他に知らない(…こともないか)。まさにAutomatic、自分が止まりたい止まりたくない以前に止まらないのである。この情熱、この勢い。こういうのを普通は、Popnessの対局として、芸術家肌、作家性、Artisticityと呼ぶ。ヒカルはまさにそちらの人間であろう。

そんな彼女が、傍若無人に芸術性をとことん追求する道を選ばず、Popである事を自らに強いている。そのバイアスが最もかかったのがThis Is The Oneだったように思う。その時のメインストリームポップを出来るだけ踏襲したサウンドで、波風立てず穏やかにアメリカ市場にSay Helloする方法論。前回触れた通り、それはほぼ目論見通り達成される。派手なヒットにはならなかったが、着実に少しずつ人々の耳に馴染んでいった歌。それなのに体調不良で頓挫した。ぐむむ。

ありていに書こう。私は、それは光の内面のArtisticityの警告だったのではと考えてみているのだ。余りにPopに自分を強いすぎて、心身のバランスが崩れたのではないか、と。ただこの仮説は、他のミュージシャンには通用しても光に通用するかどうかがわからない。何故光が自らに好んでPopnessを強いているのか。直接的ではないにせよ、その方向性の決定自体は、光自身の嗜好によって為された筈なのである。好きで強いていた。そうとも考えられるのだ。

まだこの話は続きそうだ。どういう話に発展するかはまだ見えないが、また次回のお楽しみという事で。