無意識日記々

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深い河の流れから海の路へと。

前回のエントリで、『空が目を閉じる』の一節について元々あった解釈について触れるのを忘れていた。でないと話が通じないというのに。やれやれ。

その解釈とは『空が目を閉じる』というのが皆既日食の事を指す、というものだ。別に皆既月食でもいいのだが。確かに、徐々に太陽が欠けていく様は太陽を空の目だとみれば、まるで瞼が落ちていく過程だから映像的には完璧な解釈である。

ただ、だとすると詩の本編との連関がますますわからなくなる。この一節の解釈としてよく成立したとしても、詩全体の中で何故この一節が最後に来るか、という文脈についてより混迷を深めるのであれば事態は改善されたとはいえない。この点が引っ掛かる為前回のような、機能的・抽象的な解釈をしてみた次第。映像的には皆既日食とした方が鮮烈なのだが、痛し痒しな具合である。

ただ、詩をここだけで読まず、3rdアルバムから4thアルバムへの流れの中で眺める手もなくはない。Eclipseというそれそのものの楽曲も収録されているし、ULTRA BLUEというタイトルも大空(或いは大海原)の含意がある。海路という曲名にも表れているように、3rdから4thとは流れから広がりへ、という道筋だった(2ndから3rdは隔たりから流れへ、だ)。その合図が『空が目を閉じる』ことだったという風にも考えられる。そうすると、海路にて船が打つ波が黒いのは日食時或いは月食時の暗闇の比喩ともとれるし、その後『春の日差しが私を照らす』場面は、蝕が明けて何かが生まれ変わる事を指し示しているのかもしれない。その直後に父と子の話に触れるのも、Deep River+でこどもに向けられる視線を継承しているのかもしれない。さすれば、海路に出てくる『かくれんぼ』とは皆既日食の事であろうか、と話は繋がってゆく…


…のだが、私としてはどうも解釈として弱い気がしている。いずれにせよ正解なんて設定されていないのだから、より整合性の高い説明が出来るよう、まだまだ考察を進めていく事だろう。