無意識日記々

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テイク5へ

テイク5がヒカルのレパートリーの中で際立っているのは「誰も居ない」事である。自我の確立(或いはそれよりも前)を描いたぼくはくまでさえ、まくらさんが居て母の名を呼ぶのだが、テイク5では『会わないほうが ケンカすることも 幻滅し合うこともない』と他者との交わりを否定してしまっている。この一節には、「あなた」も「君」も出てこない。誰と会わないと言っているかすらわからないのだ。つまり、誰が相手とかは関係なく、兎に角人と会う気自体がないのである。唯一存在する他者は「真冬の星座たちが私の恋人」とあるように、ここでも大空である。

この曲のモチーフになっている銀河鉄道の夜では、このような場面は出てこない。家に帰れば母も姉もいるのがジョバンニだ。テイク5ではコートを脱いで中へ入った時に、ここで誰かが出迎えてくれる風でもない。ジョバンニが感じていたのは喧騒の中での孤独であり、草の冷たさはそこから離れた時に感じる彼のリアルであるが、テイク5で冷やしているのは己の火照る体である。喧騒に溶け込まないジョバンニとは真逆に、この歌の主人公は自らの内に喧騒を秘めている。何となれば、喧騒の中心にも位置できる存在だ。彼(彼女)は、冷たい草の上に逃れにやってきているのだ。この心象風景は、そのまま虹色バスから引き継がれている。みんなを乗せて大きな声で歌を歌う賑々しさから、『誰も居ない世界へ私を連れて行って』と呟く主人公は、テイク5に於いてその願いが叶えられると言っていい。『ナイフのような風が私のスピード上げていくの』とは、バスであれ銀河鉄道であれ、何か己の足でない駆動力によって運命が押し進められていく様を表現している。それでも
『"私の"スピード』という言い方は、それがただの受動態でない事も示唆している。確かに、ここから帰る家には誰も出迎える者はないだろう。ヒカルはこの時、誰も共有出来ない境地に辿り着いてしまっていたんだろうな。