無意識日記々

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そうか、"トラベコス"でええのか。

前回はコスチュームの話になったが、PV本編も今見返してみるとちょっと違った感想が浮かんでくる。

基本的には、銀河鉄道に乗って楽園の星に辿り着く、というおおまかなストーリーはあるものの、ひとつひとつのカットの存在意義はかなり意味不明だ。別に卓球する必要は万に一つもないだろうに、何かの洒落なのだろうか…なんて突っ込み始めるとまるでキリがない。なるほど、そういう風に捉えてみればUU06のLettersがあんなに支離滅裂な出来になったのも合点がいく。travelingPVも、一歩間違えれば同じような結果になっていたかもしれない。

兎に角当時はFINAL DISTANCEで登場した豪華絢爛な世界が余りに衝撃的だったので、次から次へと襲いかかってくる映像の洪水に圧倒されていた。しかしその「脈絡のなさ」は、その後に映画「Casshern」に継承され"2時間超のPV"と揶揄される事になる。無脈略な映像は、5分前後のひと連なりのリズムの中でなら消化できるが、それが2時間となると事情が違ってくる訳だ。

そもそも、岩下さんは写真家である。絵画と写真という芸術は、観賞時に時間軸という制約を持たない。寧ろ、小説や音楽なら時間をかけて描写していく所を一枚の平面に総て押し込まねばならない。つまり、成果の成熟を測るには、如何に一枚の中に大きな物語を込められるかにかかっている訳だ。これに対し、例えば小説は時間軸そのものの芸術であり(何しろたった一行だ。どこまでも。)、その成果の成熟は、それがどれだけ"一枚の絵"として纏まっているかで測られる。伏線の回収や登場人物の人格の統一性、様々な文脈の絡み合いなど、あらゆるバラバラの要素が融合していく所に魅力があるのだ。絵画や写真は一枚の中に数万行分の物語を詰め込み、小説は数万行を費やして一枚の絵のような迫力を追求する。漫画ONE PIECEが素晴らしいのは、その両方の魅力を兼ね備えているからだがまぁそれは別の話。

という訳で岩下さんは(いや別に本名で呼ぶのに他意はないんですけどね)、写真家として写真を撮る分には無類の才能を発揮するが、その才能は物語性を重視した場合の映画という作品に対しては真逆のベクトルとなっていた。そのバラバラのイメージカットの数々を違和感なく見させていたヒカルの楽曲の存在感の強さを讃えてエントリーを締めくくると定型的に、過ぎるかな。締めちゃったけど。