無意識日記々

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情緒が嫌いになりそうで怖い日々

前に光が「メルトダウンより大停電の方がいい」と書いた事についての含意を考える。これだけ暑いと炎上させる気力もないので、出来るだけ穏当に。フォロワーは減るかもしれんが。

メルトダウンにしろ大停電にしろ重要なのは規模である。今回の福島の事故をメルトダウンと呼ぶのなら、死者はおろか健康被害一件もない事故なのだから(もう一年半経過しているのに)、仮に首都圏で大停電が起こった時の被害とは較べものにならないだろう。勿論逆に、"まぢもんのメルトダウン"(つまり、首都圏の電力の数%を賄えるという途轍もないスケールのエネルギーをもった物質がまるごと飛散する事態)が起こった時のおぞましい状況と、片田舎の真夜中に大停電が起こった場合(そもそもそんな場合に電圧低下なんか起こらないが、自然災害等が原因と考えてもよい)を比較するならば、前者は最早何も言う気力がなくなるだろう。

つまりは、この2つのどちらがマシなのかなんて、「一概には言えない」に決まっているのであり、いつどこでどれくらいの事故が起こる、というタイプのシミュレーションをしないと議論に意味を持たせられない。

それでも敢えて光がこの比較について言及したという事は、そういった多くの変数を擁する定量的な議論が主旨なのではなく、もっとその2つ個々の性質において本質的な議論、定性的な議論を行っていると考えるべきだ。

規模に依存しない両者の本質的な違いとは何か。それは、普段発電所を稼働させている時の受益者と事故が起こった時の被害者の非対称性である。大停電は受益者がそのまま被害者となる可能性がある。くじ引きみたいなものとはいえ(悪夢の、だがな)、一言で言ってしまえば「自業自得」である。しかし発電所の事故は、その事故の起こった地域近隣の人間に被害が集中する。悪夢のくじ引きではなく、"お前は最初から負け犬ムードだったのだ"な感じに被害者が偏る。しかも、普段その発電所で作られる電気を普段使っていない人たちである可能性がある。恐らく、ヒカルがメルトダウンを気に入らないのはこういった非対称性に因があるのではないか。「自分のケツは自分で拭く」と言って人間活動に入った人間が、「自分のケツを他人に拭いてもらう」ような真似は看過し難かったのだろう。

ただ、それなら別に発電所原子力に限らなくてもよい。水力も火力も太陽光も、過酷事故が起こった時の被害者は必ず地元に居た人たちだ。その非対称性はなくならない。この論点からいえば、発電の一局集中事態が元々の問題という事になり"メルトダウン"と大停電の比較にはならない。という訳で今日のこのエントリーは眉に唾つけて話半分位のノリで聞き流しておいてもらいたい。まる。