無意識日記々

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いろんな所で軌道修正

作品というひとまとまり、もっといえば作品とは単位に成り得るものであり他者との相互作用によって成り立つものでそこでは社会性、流通性といったものが問題になってくる。

卑近な例を出そう。新世紀エヴァンゲリオンは当初その無茶苦茶な制作体制も話題になった。スケジュールが破綻し、テレビ版の第25話、26話は"あんなこと"になってしまった。今ニコニコ生放送で今一度テレビ版の放送が始まっているから気になる人はチェックしてみて欲しい。で、映画もまたすったもんだの末というドタバタ感。作品の内容にしろ制作体制にしろ"青い"感じが特色であった。

しかし新劇版になってこういった評価は一変。相変わらずギリギリまで作業はしているらしいが総てのスケジュールが順調に進んでいる。随分と"大人"になったなぁという印象を受ける。

こうなってくると周りものっかりやすい。テレビ放映時からは考えられなかったような大手たちが宣伝に携わるようになり、知名度はグンと広がった。作品体制の健全さと作品内容の健全さ(と言い切れるかどうかは今後の展開次第だが)がリンクし合いながら、作品の流通性と社会性を高めていったのである。

宇多田ヒカルの場合はその点非常にプロフェッショナルに進んできている。残り数時間というギリギリで間に合わせてきたとはいえ締め切りをオーバーし発売日をずらした事は一度もない。あるのは、体調不良によるコンサートやテレビ出演やプロモーション活動の中止である。長くやっていればこういった突発的な"キャンセル"は幾らでもある。確かに周辺に迷惑をかけたかもわからないが、それは"計画が破綻する"といったレベルではない。宇多田ヒカルはアーティストであると共に社会人としてもキッチリ振る舞ってきている。

人間活動とは、そちらとは逆に、そういった流通性や社会性を、個としてのあり方を蔑ろにしてまで保証してきた事の補償期間、とみる事も出来る。社会生活とは対局にある"野生生活"風味。一個の生命体としての自然さを取り戻す作業。

で、前回の話の続きである。社会的存在としての"宇多田ヒカル"の流通度は桁外れで、ツイートで熊の子どう?いや違う、熊野古道の名前を出す出さない程度の事でも悩まなければいけないレベルなのだが、昔指摘したように、そういった"表向き"が変わらないように維持する為に、人間的な、ひとつの生命としての鼓動をリフレッシュしているのだとすれば、まるでそれは、同じストーリーをなぞっているようでいて全く違う方向に進みつつある新劇版新世紀ヱヴァンゲリヲンのように、いつか違いが表に出てくるものなのかもしれない…

…って結局EVAの名前出しちゃってるな。触れない、って言ったのに。次回軌道修正しないと。果たして出来るか!?