無意識日記々

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私たちの続きの足音

桜流しの序盤のピアノは、即ち和音の変化の物語である。桜の花びらが舞い落ちる様であるとか星降る夜空の下の街並みであるとか、そういう比喩も可能であるけれども、そして、その比喩は歌詞と対比して非常に強くそういう解釈の元描かれているだろうことを示唆しているけれども、別にその比喩に囚われる必要もない。

最初のイントロから1番への展開は、もっとシンプルに雨滴の様子の比喩だと解釈してもよい。であるなら、この分散和音から連続和音への流れは、雨が降って地面や水面に当たり地を流れ始める様子だという風に捉えられる。そこに桜の花が絡んで、という風に色をつける事も出来る。要は、分散和音のパートは儚げで幻想的で、連続和音のパートに入るにつれ地に足のついた、着実な現実と向き合うようになる、という事だ。

しかし一旦、『Everybody finds Love in the end. 』のパートを経てまた幻想的な分散和音に戻る。そして、ここからが要である。

『あなたが守った街のどこかで今日も響く健やかな産声を聞けたならきっと喜ぶでしょう私たちの続きの足音』。ここで印象的なのは産声の事を"続きの足音"と喩えている事だろう。比喩として違和感はないが、かといってこう言う必然性も薄いようにも思える。しかし、ここはこうでなくてはならない。その後にピアノがピアニッシモに、しかし着実に和音を刻み始めるからである。リズム自体は冒頭から連なる332の混合拍子なのだが、最早分散和音ではなく、強拍のみ最高音を打鍵する和音でもない。全音をコンスタントに打鍵し続ける、静かに、淡々とした伴奏である。これが『私たちの続きの足音』なのだ。分散和音によって空から舞い降りた夢が地面にぶつかり現実と向き合い、カタストロフを経てしかしそれでも小さく力強く前に進もうとする生命力は地に足をつけて時間という名の足跡を記してゆく。よくよく聴いてみて欲しい。このピアニッシモの和音は、この後楽曲が終わるまでひたすら続いてゆく。夢の続きを託された小さな命の歩みは、このあとの激動にあ
っても揺らぐ事なく時を刻み続けるのである。この『私たちの続きの足音』たる単和音のリズムに辿り着く為に、冒頭からの分散和音は用意されていたと言っても過言ではない。ドラマティックなアレンジメントとは、この桜流しのピアノにこそ相応しい形容である。