無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

可能性の縁(ふち)

旧劇版EVAは自己批評性が際立っていた。「アニメなんか描いていて/観ていていいのか?」という葛藤が行き過ぎて、最終的には観客席をスクリーンに映し出すまでになっていった。そういった自己批評性が「アニメとは何か」という命題に向き合わせる事になり、人はアニメの可能性の縁(ふち)を探るようになり、結果としてアニメーションの可能性をそこから押し広げていく事になる。これは漫画も同じで、手塚治虫は常に「漫画」という表現形態の限界を探っていた。「先頭を走る」には、自己嫌悪や過剰謙遜と紙一重の自己批評性が必要になる時もある。小津安二郎ですら「所詮映画」と言っていたのだから。

邦楽を聴いていて思うのは、有名どころに「俺、歌なんか唄ってていいんだろうか?」と悩む人を余り見掛けないという事だ。売れない人がそう悩むのは当たり前体操として、いちばん売れてる人が卑屈になってるケースがなかなかない。これが、邦楽があんまり発展しない遠因だと勘ぐるのは穿ち過ぎか。そうやって日本語の歌の可能性の限界と向き合い、結果歌の可能性を押し広げる貢献を果たす人がなかなか現れないのではないか。

ヒカルはその点でも突出している。小さい頃から「両親のようにはなるものか」と安定した職業を所望し、ミュージシャンになった後もいつでも辞める事や休む事を考え続けていた。それが結果として誰にも成し遂げ得なかった記録を打ち立てて結局12年間実働した。自己批評性という点に関しては他のジャンルと比較しても遜色ない。ただ、あんまり「所詮は歌」という風に言わないのは…まぁ、立場上言い難いのかな。本音としてはそう思ってないだろうし。

桜流しは、また「日本語の歌」の可能性を押し広げた。大事なのは、30万ダウンロードというヒットの規模だ。今までにない音楽性を指向するだけなら、私たちの知らない所で素晴らしい音楽を創っている人たちが居るかもしれない。しかし、マスメディア全開でこういった楽曲が敷延していくのは革新的だ。商業音楽でどこまでいけるか。Passionに"Single Version"があったのを思い出す。ヒカルは常に商業邦楽の限界を探り続けている。今回も"アウト"だったか否か。Passionの"その後の評価"を想起すれば、自ずと答は見えてくるんじゃないかな。