無意識日記々

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木立

で、桜流しダブルミーニングの類はあるのかという話だが、無い。

これは、歌詞に余り音韻を持ち込まなかった事と直接関係がある。単純に、一般的なダブルミーニングというのは駄洒落がいちばん多い。次に比喩だろうか。なので桜流しにはダブルミーニングを仕込む余地がないのである。

とはいえ、前回触れたキャンクリやグッハピの歌詞は駄洒落でダブルミーニングになっているのではない。比喩でもない。聴く側の心理を汲んだ叙述トリックに近い。普通の叙述トリックは、書き手が意識的に読み手の注意をミスリードする事によって成り立っているが、ヒカルの歌詞の場合は聴き手の主観的心理が主役となっているから生じるのは騙されたという感覚ではなく、純粋な共感である。なかなかにこういった作用はどのジャンルを見渡しても見当たらないのではないか。

桜流しでは、しかし、その代わりといっちゃあなんだが、鍵となる表現、言葉遣い、言い回しというものはある。音韻以外にも歌詞を技術的に構成する方法は幾重にもあるのだという事を見せてくれる作品だ。

例えば、まず印象的なのは『開いたばかりの花が散るのを』の一節。冒頭部と最終部のそれぞれ一行目で同じフレーズだが、続きが違う。『今年も早いねと残念そうに見ていたあなたはとてもきれいだった』と『見ていた木立の遣る瀬無き哉』である。最初に花が散るのを見ていたのは"あなた"だが、最後に花が散るのを見ていたのは木立である。ここの描写の見事さは語るまでもないだろう。"木立"とは、元々"あなた"の背後に広がる光景、背景であった。花が散る場所なのだから当然だが、そういう風景を聴き手が想像しているだろう事を見越して、この、最終部での「"あなた"の不在」を「木立」の一言で表現しきった。

"見ていた"という擬人化がまた抜群に効果的で、『見ていたあなたはとてもきれいだった』の一節から、主人公の"私"が、花の散るのを見やる"あなた"の横顔とその差し向ける目を強く記憶に残しているのがわかる。この横顔と目線の"残像"だけが、木立をバックに浮かび上がるのだ。浮かび上がる、花の散るのを見やる視線と、その主の不在。なんだか私はファインマンさんの例のエピソードを思い出してしまった。妻を亡くした時も葬儀の時も泣かなかったのに、幾らか経ってから街角でショーウィンドーを眺めて『この服、妻に似合いそうだ、買って帰ってあげようか』と思い妻の不在に気付いた瞬間涙が止まらなくなった、というアレだ。桜流しでも、花が散るのを"あなた"が見ていた頃から季節は一巡以上しているのだろう。去年と同じように、そこには木立があり、同じように花も散っているのに、"あなた"だけが居なくなっている。この変化。『やるせなきかな』の一言に、その時の感情が集約されている。

またここでのメロディーの配し方が秀逸で…という話からまた次回。