無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

なら・なら・なら

周りが全部カップルなんですけど…(笑)。

こういう雰囲気の中で桜流しの話をしたがる私。そして明日はDVDシングルのフラゲ日だ。ヒカルのクリスマスはどんなかな。

前に最後の一節が「全ての終わりに愛がある"から"」ではなく、『全ての終わりに愛がある"なら"』になっているのは、確信の不在が理由だと述べたが、もう一つ、"伏線の回収"という役割もある。これは結構わかりやすい。『もし今の私を見れた"なら"どう思うでしょう』と『今日も響く健やかな産声を聴けた"なら"きっと喜ぶでしょう』の2つが伏線になっているのだ。

どちらも「仮定の話」である。そして、最初は疑問形、「どう思うでしょう(か?)」で次は推量の「きっと喜ぶでしょう(ね。)」だ。そして最後は、順番を入れ換えて書くと「全ての終わりに愛があるならどんなに怖くたって目を逸らさないよ」になるが、これは決意表明、断定といえばいいか。もっと直せつ的に言えば、希望だ。いずれも仮定の"なら"だが少しずつ意味合いが異なる事に注意。そして、大切なのは一つ目より二つ目、二つ目より三つ目の方がより調子が強くなっている事だ。最初は儚げな疑問形。恐らく、本当に彼がどう思うかわからないという不安が拭えないのだと思う。なぜなら、お互いがお互いに対して「あなたなしでの人生を考えていなかった」からだ。今の私が、生きてる筈のない私が生きている事への疑問そのものをこの"なら"は引き受けている。

次の"なら"が導くのは"きっと"である。これは確信である。"あなた"はこう思うに違いない、"なのに"あなたは居ないから"思えない"。確信が強ければ強い程悔恨の度合いは増す。即ちこの"きっと"は悲しみの深さを表す。その為の"なら"である。

そして最後の"なら"は「そうであってほしい」という"希望"を導く。疑問より確信より、祈りをも伴った希望への思いこそ最も強い。「生きねば」。一言でいえばそういう事だが、過酷である。それを耐える為には「全ての終わりに愛がある」という希望がなければ、たちゆかない。しかし、それは最後まで行かなければ愛に辿り着けないという事でもある。難しい。

そして、この三つの"なら"に載せられた思いが強まるにしたがって曲調も歌の調子も強さが増していく様をじっくりと聴き届けて欲しい。歌詞を斯様に構成する事と、編曲上の展開と歌唱の抑揚が見事に同調している。作詞作編曲歌唱を全て自前で執り行うからこその統一感だ。桜流しの気迫、迫力はこういった意志の強い演出志向の統一を源泉としているのである。