無意識日記々

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"なら"

「愛してその人を得るのは最もよい。愛してその人を喪うのはその次によい。」

桜流しの『全ての終わりに愛があるなら』の一節を耳にした時、最初に思い出したのがこの言葉だった。元々は19世紀生まれのイギリスの小説家サッカレーの残した言葉なのだが、私(及び同世代の皆さん)にとってこれは漫画「ジョジョの奇妙な冒険第一部」における名言の一つである。この漫画は当時としては珍しく、主要な登場人物がころころ呆気なく死ぬ。しかしだからこそその短い登場期間に愛着がわいたものだが、彼らが逝く時の「看取り方」も作品の重要な場面のひとつだった。人は喪われるものだ。では如何にして喪う事があるか。それを考えさせられる種々の看取り方があった。

桜流しの一節が同じ意味を持つと主張したい訳ではない。ただ、「終わりに愛がある」とはどういう事なのかは、この曲を耳にした全ての人が一度は通過する疑問なのではないかと思うのだ。英語詞の部分は「Finds love in the end」であるから、穿った見方をすれば"愛は最後にならないと見つからない"とも取れる。或いは、最後まで共にあって初めて愛と呼べるものになる、とも。英訳では『If at the end of everything, there is love』となっている。『ある"なら"』の"If"の響きをどう受け取るか。英訳詞から見えてくる事もある。サッカレーのプロフィール読んでたら時間なくなっちゃったので続きはまた次回。