無意識日記々

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インプット・バランス

桜流しのビデオ、技術的な事はわからない。となれば感性の話ばかりになるかといえばそうでもない。何といえばいいか、そこにヒカルの匂いがあると嗅ぎ付ければ割って入ってでも掬い採るのが当欄の特徴だ。

興味があるのは当然、どこまでがヒカルのインプットであるか、だ。前作では監督を務めている人が此度びは一歩退いている。にしても、何度かはミーティングを重ねたようだ。具体的にどの部分が、という話も知りたいが、何よりも、今後またヒカルが、いや宇多田光が映像を監督するとなった時、何をどれくらい期待できるのか、という点について知りたい。その為の分析と言っても過言はない。

勿論、このビデオはそれ単体で素晴らしい。と同時に、何やら少し「限定的」な匂いもする。例えば紀里谷監督がFINAL DISTANCE, traveling, Sakuraドロップスの3作で"あの世界"を追求した時のようなアーティスティックなパートナーシップを余り感じない。もっと踏み込んでいえば、このコラボレーションは今回一度きりなのではないかと言う話である。

ここは(私にしては珍しく)誤解を招かないように書きたい。つまり、河瀬監督は"桜流し"だから連れてこられた、この曲との相性を重視した人選だったと言いたい訳だ。今後も2人がコラボする可能性はゼロではないが、それは、"それに相応しい楽曲"が次に生まれるまでないのではないか、と。

この仮説の示唆する所は重要である。裏を返せば、光にとって彼女こそが桜流しのビデオを撮影するのに最適任だという事実を、光が予め感知していたという事になる。とすれば、光の頭の中にかなり早い段階から桜流しの映像が、具体的であるかどうかは別として「こんな感じに撮りたい」という方向性があったという事になり、もしそうであれば光はかなり入れ込んで彼女とのミーティングを重ねたと推測できる。一期一会の精神を発揮するにあたって、ここらへんが光のインプット具合を決めるキーポイントになっている見立てをしたい。嗚呼、光にインタビューしてみたいなぁ。何万時間あっても足りないけど。

しかし、ならばそこらへんのバランス、つまり宇多田vs河瀬のインプットバランスを見極める為には、河瀬成分を引き算できるようになる為に河瀬監督固有のカラーみたいなものを把握する必要があるな。あらためて彼女の他の作品を見てみて、そこからこの話を続けるべきだ。うむ、乞うご期待。