無意識日記々

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20年前の偏執的なまでの日本語への拘りの話

今回ヒカルは『BADモード』アルバムに於いて、片方はボーナストラック扱いとはいえ、『Face My Fears』を日本語と英語で、『キレイな人(Find Love)』を日本語(と日本語タイトル)と英語(と英語タイトル)で、それぞれ歌詞を書いている。そして、少なくとも、『光』と『Simple And Clean』ほどにはあからさまにメロディを変えたところはなく、基本的に、日本語歌詞曲も英語歌詞曲も同じメロディで歌っていると。

もう一度そこのところの発言をお浚いしておこう。

『今回は敢えて、ちょっと無理があるような感じがしても、もう押し通しちゃおうって、つもりでやりました。あんまメロディ変えないで。』

『ほぼ同じメロディをなぞってる部分でも、なぜか、その言語が変わると、ノリ方が変わるっていう。あたしの歌い方が変わるのか、その、言語自体が持ってる、なんかノリが違うからだと思うんですけど。例えば母音と子音の、強調されるバランスとか、そういうのだと、そういうのが理由だと思うんですけど、こんなに違うんだぁって、っていうのが、あたし自身も発見でしたね。』

そう、今回は同じメロディにしようというやや強めの意志をもって事に当たったという訳だ。それでもやっぱり日本語曲と英語曲で「違うモノが出来た」ということに、なるのかな。

『光』と『Simple And Clean』の時、つまり今から20年前の頃の気持ちについて今のヒカルは次のように自己分析している。

『英語と日本語半々みたいになっちゃっうと、英語圏の人も日本語圏の人も両方とも疎外感というか、ま距離感を感じちゃうんじゃないかっていうのが多分怖くて、曲によってどちらかに多く応える、メインで応えていく、っていう、意識があったと思うんですよね。』

この『多分怖くて』という“恐怖感”が、日本語曲と英語曲でメロディを変えることに結び付いていたのだ。『光』は日本語曲として映えないといけないし、『Simple And Clean』は英語曲として映えないといけない。そんなプレッシャーがあったのだろう。

実際、その、恐怖感を背景とした「日本語曲として」という拘りは相当のものだったようで、ある意味偏執的ですらあっま。その時点で初めてシングル曲のタイトルに漢字を使ってきたし(10枚目のシングルにして)、ブックレットの歌詞も縦書きで開き方が逆だった。そこまですんのかい。お陰でプラケースのツメでブックレットを破損する被害が続出した(よね?w)。そのようにまでして日本語に拘ったのが『光』であった。当然、その反動で『Simple And Clean』は日本語の欠片も残っていない英語100%な"純・洋楽的"楽曲となった。

今は、言語の前にまず曲なのだろう。例えば『Face My Fears』という曲がまず先に在って、そこに合う歌詞を載せるという考え方。実際、身も蓋もないシンプルな指摘になってしまうが、『Face My Fears (Japanese Version)』の歌詞は、サビが

『Let me face, let me face

 Let me face my fears…』

と英語のリフレインをそのまま残してある。だから歌詞カードを見ると、Japanese Versionと銘打っているのに拘わらず歌詞の半分は英語が占めている。そもそも、『光』と『Simple And Clean』みたいにタイトルを日本語と英語に書き分けてもいないし、「日本語バージョン」と日本語で書かずに"Japanese Version"ってアルファベットで書いてやがるし、これほんと歌詞カードに一切アルファベットがなかった(縦書きだったからねシングル盤)『光』とは対照的なんですよねぇ。

……と、これが最も端的に特徴が出た比較となる。『Face My Fears』と『光』&『Simple And Clean』を比較した場合ね。

しかし、ここから更に『Passion』&『Sanctuary』、『キレイな人(Find Love)』と『Find Love』のパターンの比較・対照をし始めるとまた話が少しややこしくなってくるんだな。明日の私がそのややこしさと格闘する気になってくれていたら続きはまた次回からw