無意識日記々

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無自覚依存

ヒカルの映像やら写真やらは、もう日本では数千万人単位で出回っているのだろうか。私はシンプルに、多分Hikaruは本音をいえばそっとしておいてほしいのだろうから特に観ようともしないのだが、何だこの疎外感。ヘンなの。実際にスルーしてる人は一切発言してないだろうからこんなもんなんだろうけど。

話を大幅に短縮して結論だけ書けば、私はテレビ新聞雑誌に"権威"を感じていないんだと思う。用があれば使わせて頂くし、でなければスルーする。それだけの事なのだが、多くの人はかなり無自覚的にマスコミ依存なのだろう、見た上であーだこーだと愚痴を言い、何一つ改善されない。確かにメディアは余りにも巨大で、一朝一夕には何も変わらないが、自分の行動も変えられないのにそんな巨大なものを動かせ…るのが今の時代ってもんか。何だか総て対岸の出来事という感じで。私はネット依存だけどマスコミ依存ではないのでとっととスルーしときますね。…この話はやっぱり長くなるなぁ。いちばん向こうが嫌がるのは「無関心」なのだが、依存してると無理だわね。

2人が伝えたい事はメッセージに書いてある事だろう。こっちはそっちがベースだ。宇多田ヒカルはデビュー時から発信基地を持ってきた。マスコミが如何に正確な情報を伝えるにあたってアテにならないか。私は優しくないのでわざわざ不快感を訴えて抗議するなんて親切はしない。Hikaruが発信する情報だけで十分だ。尤も、そもそもヒカルの事を知れたのもそうやってマスメディアが大騒ぎしてくれたお陰なので、その大恩を忘れるというのも人としてどうかと思うけれども。


読者層を想定して話を整理するだけでも字数を使うなぁ。マラソン覚悟でないとこのテーマにはおいそれとは踏み入れられないんだな。一生ズシリと重くのしかかるもんな。母親を自殺で喪った事実。


今回もひとことだけ付け加えておくか。こっちが主文なんだけど。

メッセージを読んで安堵した理由は幾つかあるが、ひとつは、それだけ長い期間苦しんできたのなら、「死」の衝撃自体は、そんなに唐突ではなかったかもしれない、という事。精神疾患の部類に分類される人のみならず、話を認知症患者さんまで広げれば多くの人も当事者になるのだが、生きているうちにこちらの顔や名前がわからなくなったりというのは相当のショックで、往々にしてそれは、後から振り返ってみるとその人が実際に死んだ時よりも精神的打撃は大きかったりする。家族との闘病の記録は、本人の結末が死であった場合、家族にとってそれは長い長い"入院"生活からの"退院"みたいなものだ。妙な響きだが、前も述べたように喪失感と後悔と居心地の悪い安堵感の複合が心に去来する。死は衝撃的だが、ある意味その深さや大きさについてはある程度"予習済み"ともいえる。だから、2人は今毅然とした対応を取れているのだろう。勿論文章ではある程度「やせ我慢」が出来るので、会って話してみれば憔悴しきっているのかもしれない
が、赤の他人に"そう受け止めてほしいからそう書いた"のだろうから、こちらもそう受け止めた上で発言する。今までもそうしてきたし、これからもそうしますよ。