無意識日記々

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くまだらけのこころまだらもよう

そろそろ月末なんだな。In The Flesh 2010 footage の発売について発表がある頃だが、流石にその件について照實さんにツイートで質問する猛者は居ないか。…私か。んじゃま音沙汰が無ければ週末にでも。みんな訊ね難いだろうし。


「くまちゃんとHikaruを入れ替えて考える」というアイデアは、どこまで何に適用出来るかはわからない。一体どうやって"ただの綿"をあれだけ愛する事が出来るのか。ぬいぐるみを愛用した事のある人には案外大体自明というか愚問というか「そんなこと言われても。気がついたら話し掛けてるんだから」って感じだろう。あらためて訊かれても困ります、と。それに、人を愛するのと綿を愛するのに本質的な違いがあるかというと、これが結構わからないし。

基本に立ち返ると、綿と会話していると、自分が独りで考え事をしていても考えつかないような、思いも寄らない"返事"が返ってくる事がある。作家が「キャラクターが勝手に動き出す」と言う事があるが、その効果を綿は持っている。そういう意味において、実際に生きている人間と何ら変わらない。アニメのキャラクターをまるで生きているかの如く扱うように、綿もまた生きている。Hikaruにとっては、そうとしか言えない。

くまちゃんを考える時、キーワードのひとつとして必ず出てきたのが「母性」だった。Beautiful Worldを初めてフルで聴いた時、私は「まるでお母さんみたいな曲だなぁ」と呟いた。Stay Goldの、年上のお姉さんが年下の男の子を優しく見守る姿は、まんま(でもないか)くまちゃんを見守るHikaruみたいだ。2006年〜2007年あたりから、Hikaruにこういった側面が表れてきたように思う。

当時は、それを年齢に起因するものとして捉えたり(23,4歳の頃だ)、EVAというテーマがそうさせたと考えたりしていたが、今、ひかるの「本当のお母さん」との事についても考える機会を得ている。それは、喪失感だったのか脱却だったのか。まだまだ情報は少ないが、作風の変化どころか生き方にまで関わる事なので肝心である。

Hikaruは、CMでもグッハピでも、ギガントを"脱ぐ"仕草をする。また、ギガントがHikaruを脱ぐ落書きも書いた事がある。一言で言ってしまえばこれは色即是空空即是色であって、くまちゃんだと思ったらひかるで、ひかるかと思ったらくまちゃんで…という幻惑的な様子を描いている。もっと言ってしまえばこれが宇宙の真理、本質という事だろう。「ぼくはくま」が最高傑作と言った当時のヒカルからすれば、そういう風に言い切った方がしっくりくる。

とすると、やはり同じ疑問に戻るのだ。ぼくはくま。なぜくまちゃんは男の子なのか。色即是空空即是色に当てはめてみれば、男かと思ったら女で、女だと思ったら男で、という感じ。そういえばHikaruは落書きする時に「自分の胸を描き忘れる」と言っていたな…まだツイッターの画像残ってる?


それは、男の子になりたかった願望なのか。男の子だったら、母にこう愛されていたかもしれない、というシミュレーションをくまちゃんとひかるで展開しているとしたら、何か泣けてくるぞ。

しかし宇多田光はもっと多義的である。彼女は純子さんの事を「かわいらしい人」と言った。ここが何となく重い。そういや「なんとなくインディーズ特集」の記事まだ途中だったな。どーにかしないと。それはいいとして(いいのか)、この、「かわいらしい」という感覚は何なのだろう。男性的な感覚なのだろうか…という言い方には百合男子としての俺(そんなペルソナがあるのかキミは)が待ったをかけたくなる。女性が女性をかわいらしいと言って何が悪い、と…。ひかるの男性性や少年性は、5歳の頃以降…嗚呼、では、母にどう罵られたことがあるか、って話になるのか…ここでこの連載中止しないといけないかもな…一晩考えますわ。兎にも角にも、今危なっかしいテーマ扱ってるわ無意識日記は。