無意識日記々

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#InterFM で演歌流してええんか?

どういう気分でラジオを聴けばよいのかよくわからない。気分なんて自分の自由にならないのだから心配しても仕方がないのだが、しからば「どういう顔すればいいかわからない」とでも言おうか。いや、似たようなもんだな。

『一人でも多くの人に聴いてもらえたら嬉しいです』という光のことばをどう斟酌すればよいか、あぐねている。いやそれはもういつも通り字面通りの意味しかないのだが、これを言うに至った心境の辿った道筋と言おうか。言った意味というより言おうとした意図は何なのか、という点を少し考えてみたい。

ファンの中には、悲しくてまだ藤圭子の歌声を聴くのは辛い、という人も居るかもしれない。彼女のファンというと、でも、大体ご高齢なのでショックではあってもそこまでナイーブではない、とは考えられる。勿論そういった配慮も片隅にあるだろうが主だった所ではなさそうだ。しかし、その部分に関しては「母の歌声を以て悼んで下さい」という気持ちは、あるかもしれない。前に進みましょう、と。

変な話だが、宇多田光自身は藤圭子のファンの中でも最年少グループの中に入るといえる。何しろ、30歳以上の差が2人の間にあるのだから、例えば宇多田ヒカルのファン層の中にはそれだけの年齢差のファンはまだ居ない。生まれてもいないからだ。彼らが生まれてきた時、そのうちの何人がヒカルのファンになってくれるだろうかとそう考えると、母娘という点を抜きにしても、「藤圭子の生歌をこれでもかと聴いた最後の世代の中の1人」として、光には彼女の歌声の素晴らしさを後世に伝える義務があるといえるだろう。頑張れば22世紀を生きる人たちにも伝え続ける事が出来るかもしれない。ベッタベタな表現だが、人は死んでも歌は生き残る。レコード万歳と言うしかない。文化。ミームは意志によってしか受け継がれない。『一人でも多くの人に』という一言は、その第一歩なのかもしれない。あらためて、ではあるが。

死をキッカケに聴いてみるのもどうなんだという違和感も、あるかもしれない。今回のヒカルのツイートは「気にしないで。寧ろ是非。」という含意があるように思われる。気にせず聴こうと思う。

さて、話を少し戻して。では大多数の対象とは誰なのかといえば、「ヒカルちゃんはお母さんの歌を聴いて悲しくならないのかな」と心配してくれてる人たちだろう。大体が、つまり、ヒカルの事を好きな人たちで、そこに心を合わせようとしている。その人たちに向けたメッセージ。ヒカルは、母の歌声を聴けるか聴けないか、どんな心理状態になるか、余計悲しくなるのか癒やされるのか励まされるのか辛いのか何なのか、語ってはいない。特に、知る必要はない。たとえ知りたいとしても。ただ、我々にどうして欲しいかといえば、つまり明白なのである。母の歌声を聴いて欲しい、と。

中には、InterFMや関係者の皆さんへの申し訳ない気持ちも含まれている。率直に言えば、ヒカルが喋ってないと聴取率は落ちる。それは防いだ方がいい。下世話な話過ぎる?? いやいや、理由はどうあれ2回も穴を空ける事をヒカルが気にしない筈がない。少しでも浅い傷で済むようにと願うのは正直な気持ちだろう。

さて、結論は1つである。ラジオをつけて番組を聴こう。後約一時間後である。