無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

カタチにして、ぱちん、ぱちん。

朝はつい「目の前に記者が居たら殴り殺す」と物騒なツイートをしてしまった。あぁうっかり。いや実はこれでも一段階抑えたツイートだったりするんだが、それはまぁいい。とにかく、これはいけない。

負の感情のスパイラルに巻き込まれてはいけない。自然淘汰は宇宙の偉大な神である。それは人間に、神の意志はなく、ただあるようにあっただけだと告げた。それの造りし機構は非常に巧妙で、例えば少数個体を犠牲にして大多数集団を救うような機構をいとも簡単に(しかし気の遠くなるような時間を思い切りかけて)現出させる。それが現実である。

人間の感情の機構も、個人ではなく集団に作用する。負の感情をもつ者同士は引き合って固まり合い、最後は一纏まりになって捨てられる。それが生き残る事だからだ。何かが、ね。

だから、我々は間違った感情に駆られてはならない。それは自滅の道である。もう一歩踏み込もう。感情は間違っている。人の駄目さ加減を感情と言ってもいい。誰でもできる事や常にありふれているものに感情は揺さぶられない。感情の表現としての音楽は、だから、常に人の弱さと向き合わなければならない。故に作曲は人にとってセラピーとなりえる。自分自身と向き合わなければ、次に何の音を鳴らせばいいのか、誰も選んでくれないからである。


何故こんな読者の減るような話をしているか。HikaruがTwitterで、遂に口を開き始めたからだ。今朝の案の定、見出し一番人気は「マスコミ恐怖症」である。これは効く。故に二度目以降はなかなか効果が出ない。いわばHikaruは「カード」を切ってしまった訳だが、その理由が友達を巻き込んだ事を申し訳無く思って、というのが泣かせる。もうこのカードは使えなくなるのにね…。

嗚呼、まずは福田麗さんの記事が口火を切ったのかな。最早Hikkiファンにはお馴染みの名前だろう。こんな名前の人なのだからHikkiファンに違いない。何という偏見。

ここからが見ものである。どこがいつ、どのような記事を書くか。どういう扱いをするか。そして、どの媒体が"扱わない"、か。知らんフリして「そうだそうだ」と言っていたら余程神経が図太いんだが…せっかくのカードを使ったのだから、炙り出せればよいのだが、流石にそれは難しいかな。

話が逸れている。冒頭の七面倒臭い話の事だ。Hikaruも、少し落ち着いた方がいいかもしれない。言いたい事はわかるし(日本語だから読めるよ、という程度の意味でしかないのだが)、言いたくなるのもわかるのだが、マスコミというのは権力である。皆"マスゴミ"とよく揶揄するが、あの巨大なシステムの前では我々の方が間違いなくゴミなのだ。塵芥と変わらない。マスとは大衆、大勢、といった意味だ。みんなゴミゴミ言うけれど、本質はそのマスっぷりにある。一億人の人間を一瞬にして動かすそのシステムの超巨大さを、今一度噛み締めるべきだろう。

何故彼らはあのように人間性を失うか。その巨大なシステムに見合うだけの才能がないからである。自由競争であの地位を獲得できるようになっていれば、或いは地位に相応しい才能があてがわれていくかもしれないが、現実はそうなってはいない。そこを変えないと、どうしようもない。幾ら人が入れ替わっても、また同じ事が繰り返される。何よりもそこである。

そこを突くつもりがないのなら、これはいつもの負け戦だ。早期の撤退を促したい。或いは、言えて少しスッキリした。そこで留めておこう。悔しいが、それは一先ず、このシステムの負の側面より遥かに大きなメリットを享受してきた我々の"してきたこと"なのだから、無関心を反省せねばなるまい。怒りたければ怒れ。しかし、それは一晩寝てうんこすれば一緒に流れていく何かでしかない。人生はそれで十分だと思うけど、社会というシステムは百足と握手するようなもので、もうどこまでも果てしなく、どこの何を選べばいいのかわからないのだから。

であるならば、折角怒り悲しんだのだ。曲を書いていた方がいい。どんな精神的体験も、楽曲てしてカタチにすれば、ほんの少し救われる。ありきたりな事しか言えなくて申し訳ないが、それが弱さと向き合うという事だ。マスコミの巨大さを前にすれば、人は自然と自分の卑屈な弱さと向き合わざるを得ない。つまり、この段階に来たという事は、Hikaruは少なからず前進しているという事だ。それを知れて少し嬉しい。ただ、こんなにも代償を払わねばならないのは、やはり間違っている…私もまだまだ、感情に流されているようだ。ぱちん、ぱちん。