無意識日記々

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2人の「2人」

前回妄想を捗らせ過ぎたのだがまだまだ余韻を引き摺っている。アドバイザーとしての役割もそうだが、やはり全作品を所持していたというのは萌える。うむ、こういう時にもしっくり来るな。萌えるぜ。

この、お互いがお互いのファン、という状態は、このBlogでも多分殆ど妄想してこなかったんじゃないか。母として、とか歌手の先輩として、とか、宇多田ヒカルは歌手藤圭子のいちファンだったとか、そういうのは鱈腹食べてきたけれども。

よく、友達同士みたいな母娘関係、って表現は見掛けるけれども、この2人の関係性は全くそこに留まらない。上下関係ありぃの、対等関係ありぃの、憧憬と尊敬と羨望が混ざり合いぃの、時には讃えられ時には罵られ、相手を護ろうとしたり護られようとしたり。千変万化という言葉がまさに相応しい。

なるほど、これほどまでに豊かな、極端なまでに多彩な「2人の関係性」を持つ2人の関係があったのであれば、ヒカルの歌詞に親子をモチーフにしたと思しきテーマが増える事にも合点がいく。もっと言えば、母の事を歌っても、リスナーからすればそれは恋人との関係に聞こえたり、親友とのエピソードにみえたり、いや時には男目線からの話にすらなっていたのかもしれない。「母を護る」という決意は、ジェンダー論は別として俗に言う所の「男らしい」色合いの濃いものだったし。

一方でヒカルは、ずっとこどもだったし、今でもその時代ありきである事は、同じく照實さんが披露してくれたカタカナに苦労するエピソードから伺い知る事が出来る。彼からのツイートは宝の山か。彼自身の話よりも食い付きがよくてすいません。

ヒカルの小さい頃の様子は、チョコレートの話(「食べていい?」)をはじめとしてもうこちらを萌え殺すつもりとしか思えないド直球の萌エピソードが満載で、幼女好きには堪らない…って書くと犯罪臭が出るから御法度なんだったな、こども好きの溜飲を下げまくっているんだけど、圭子さんもそういう目線で幼き日の光を眺めていたかと思うとこれがまた微笑ましい。しかし、ヒカルは恐らくこの「2人」の複雑怪奇豊穣至極な関係性をかなりきちんと消化して来れたのだと思うけれど、圭子さんはどこまで受容出来ていたのかと考えると、少々不安になる。そこには、母親としての感情という、本来光の方にはないファクターが存在していた筈で、ならば光は、成長するにつけそのファクターを自らの中に自前で、意図的に"生成"させていくプロセスが必要だったのではないかと考えるのだが……そうだな、そろそろ歌の話を致しましょうか。次回更新までに曲を決めなくっちゃだわ。