無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

意図手繰り寄せる時の話の欠片達

ツイッターをサボる」という表現に、Hikaruのらしさが出ているなぁ、と思った。世間的にはツイッターなんて他の事をサボる時にやるもんで、そんな風に捉えてたらいつまで経っても息が抜けないじゃないかと思うのだが、156万フォロワーともなると、ツイッターも「重いもの」になるのだろうな。気軽に呟くなんて土台無理な話。しかし、元々期間限定だったのがこうやって我々の精神を支えるまでになっているのだから不思議な話だ。

なので、SMだのラブホだのも、ちゃんとリアクションを見越した上での呟きだ。その見越しが当たっているかは兎も角として。いや、本人は気軽に呟いているつもりなんだろう、しかし、Webと向き合い、タイピングする時にはもう無意識に色々な事を考えてしまって、熟考された一言に"なってしまう"。これはもうどうしようもない。31歳を越える位になってくると、何をしようが意図を排除するのが難しくなる。そして、意図は総て無意識に取り込まれている。若い頃や幼い頃は意図とは意識に上るものであった。年を取ると、その意図が無意識の海に沈み、意図と意識は乖離していく。Hikaruの場合、それがずっと人より早い時期からだったんだと思っていたが、甘酔を聴いているとそうでもないような気がしてきた。確かに、その場での頭の回転は早く、当意即妙で歯切れがよいが、余り意識と意図は乖離していない。

そこなのだろうか。ラジオを3回休んだ。一回は扁桃腺、一回は忌引き、一回は体調不良である。どうしようもないと言ってしまえばそれまでだが、そこにある"意図"を無意識の海から手繰り寄せて、それが何であるか、何であったかをもう一度確認する術はないのだろうか。Hikaruも大人になった。二度目の結婚もする。15年前を"健気"と言って振り返る事も出来るようになった。しかし、そうやって"操作された今"からは、意識は遠のくばかりだ。何かを変えたい。それは意志の力そのものだが、どこからどこまでが比喩なのか、確かにわからない。ひとつ言えるのは、結局歌を書いてみる事しか、歌を唄ってみるしかないんじゃないかという事だ。何故なら、無意識との対話の方法を、そこではとてもよく知っているからだ。

普遍性の無さに嘆く事もなかろう。言語とは元来ローカルなものであり、メロディーはいつだってグローバルだ。自らの事を語る歌詞とメロディーを見つけよう。意図を手繰り寄せるとはそういう事だ。釣り上げられるのは自分である。まだ見ぬ幾何学。それはきっとラブホテルのあの沢山の鏡より、ずっとずっと自分を彩って光らせてくれるに違いない。その時には、もう目を閉じている必要はないだろう。空の目が再び開かれる日が近付いてくるのだ…。