無意識日記々

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歌の4/3(散文ノ詩)

歌は世界の印、世界の標、世界を知る術、歌は世界のシルエット、、、

歌は人への道しるべ、歌う人への未知を知る術、歌は、、、

世界と人とは因果なものだ。人は世界がなくては生きられないが、世界も人が居なくては知られない。世界があるかどうかもわからない。時間の刻みを通して、人と世界は対話を続ける。

人と人は世界によって分けられている。人と人を分けるのが世界だともいえる。

同じ歌を歌う違う人。歌はどこにあるだろう。


詩なのか何なのか知らないが、出てきたので書いてみた。書いてみたらこれだった。

歌うのに訳なんて要らない。復帰々々と騒いでいるが、何故こーもあーだこーだと理由がつくのか。歌が出来た、歌った、歌おう、で何がいけないのか。

他の人ならまだわかる。お金を稼がなければならない。その為に、時機を見、人を調べ、時の刻みを数えもする。

Hikaruは何も必要ない。何故、プロのミュージシャンをやっているのだろう。もっと自由でもいいだろうに。

かいつまんで言えば、次は「何がしたくてこうなった」のかを教えて欲しいという事だ。目標があったのか、なかったのか。わかっていたのか、わからなかったのか。その答は「そんなものなかった」で十分だ。「歌が出来た。歌った。ただそれだけ。」―それでいい筈なんだが。好きでも嫌いでも、やる気があろうがなかろうが、ただ事実だけあればいい。そこまでなかなか、いかないか。

『暇…。』『曲作れよ!』というやりとりが妙に印象に残っている。締切がなくても、契約がなくても、Hikaruはこう思うのだろうか。

仮定の話をしても仕方無い。実際どうだったかだけが重要だ。


要するに今私は、未来への希望や展望が語れない状態なのだ。出来た歌に触れる事、そしてそれについて語る事、それならできる。宇多田ヒカルという『約束』が保留になっている今は、うねうねと曲がりくねってそういう気分。何が出来るか、わからない。出来たものだけが確かなものだ。しかし、これでは「過去の人」みたいだな…。


出来てた歌について語るのは、まるで化石を掘り起こすかのよう。それ自体はとても楽しいが、ロマンが無ければ途絶えてしまう。歌は、過去と未来を繋ぐもの、人と人とを繋ぐもの、過去の私と今の私を繋ぐもの。そうやってあらゆる糸を繋ぎながら世界は少しずつ紡がれていく。織られていく。歌に未来を見ようとしないのは、歌が始まるのが怖いから。歌に昔をみようとしないのは、歌が終わるのが怖いから。今歌う歌に耳を傾けないのは、"今"から、世界から逃げ出したいから。

人は沢山幸せなのに、どうしてこうなっているんだろう。歌は標、歌は知る術、歌は光のシルエット、、、、、。