無意識日記々

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予期せぬあなたにもありませんか

歌詞の中の視点の転換、それ自体はヒカルの楽曲では珍しい事ではない。光とSimple And Cleanではこの2曲自体が視点の対を成していて、更にSimple And Cleanは一曲の中で2つの視点を行き来する、といった凝った多重構造さえある。Never Let Goはその中でも、一行ごとに視点が推移し、且つそこに音楽的変化を伴わないという意味で珍しいのだ。

その対比として、ヒカルの曲の中でも王道といえるThis Is Loveを取り上げよう。

この曲はヴァースとサビでの役割分担がハッキリしている。サビでは『奪われたい』『あげるよ』『咲かせてあげたい』などなど、述語を取り上げればそれは願い(とそれに伴う行動)の描写であり、一方ヴァースは登場人物2人の状況説明だ。ヴァースにも『何か言いたい』という一文があるがすぐに『けど』を伴って『もう朝』と状況説明に転じる。

この曲はつまり、外見的には静かな2人に対比して、外で激しく降る雨と、主人公の内心の熱情が呼応している、という構図を描いている訳だ。やっぱり文学的だな。


そんな中で不意に曲調が変わり、突如『もう済んだことと決めつけて損したことあなたにもありませんか?』とリスナーに語り掛けてくる場面がこの楽曲のハイライト。私はこれを古畑任三郎方式と呼んでいる。あの、彼が犯人の目星をつけた瞬間に場面が暗転しスポットライトを浴びこちらに振り返って急に視聴者に語り掛けてくる、あの方式である。ずっと画面の向こうで展開していたと思っていたドラマが急にこちらに向き直る。『あなたにもありませんか?』には同様の効果がある。向こうで2人がいちゃついてるのを眺めていたら急にこちらに向き直られる。Web用語でいえば「こっち見んな」だな。

ヒカルは、この3つの視点の展開(願望の描写、状況説明、メッセージ)を、サビ、ヴァース、ブリッジときっちり音楽的に峻別する事で鮮やかに描写する。本来、こうやって視点の転換は彩られるものなのだ。ここまで色彩豊かでグラデーションもスケール大きいのは珍しいが。


それを、Never Let Goでは変わらぬギターサンプリングをバックに淡々と歌い進行させる。何とも不思議な感触で、ある種贅沢ともいえるが、やはり日本語の歌の作り始めならではの特異性だったという気がする。これはこれで麗しい。