無意識日記々

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枯れて衰えた感性とのつきあい方

昨夜ちらっとだけ小室哲哉のニコ生生演奏を見る事が出来た。なんだか随分と時間が押していたらしく。単独でピアノ等を演奏していたのだが、ニコ生アンケートの高評価(とてもよかったが96%超)とは裏腹に、私の方は「やっぱり枯れちゃったんだなぁ」となんだか切ない気持ちになっていた。

生演奏、それも即興混じりのプレイは今のその人を残酷なまでに映し出す。彼はもはや、80年代のTM NETWORKがもっていたナイーヴな(俗に言うjuvenileな)メロディーには最早感性が突き動かされていない。ただ、昔そういうフレーズを弾いていたからそういう音運びとかコード進行とかは弾ける、弾き易いというだけである。

なかにはちょっとしたジャズ風なアレンジもあり、寧ろフレーズにリアリティがあったのは、そういった従来の小室哲哉にはない要素の方だった。つまり、彼の今の問題点は、自分が今どんな感性やそれに基づいた音楽に突き動かされるのかという現実から目を背けて、なぜか過去の再生産に走っている事なのだ。

確かに、旧来のファンであればもう30年間応援してる訳で今更新路線を追究されるより従来の名作の再生産でもしてもらっていた方がいいわけで、そういう意味では戦略的には間違っていない。事実、TMは来年さいたまアリーナ公演を控えている。あのハコでコンサートが出来ている以上、そのラインから逸脱するのは難しい。

今の彼に必要なのは、過去の栄光と指癖を忘れて、今の変わってしまった自分自身の感性を受け入れる事だろう。何の為の必要かといったら、でも、確かにわからない。たぶん、そうやって出来た音楽は、新しいファンを獲得するだろうがそれ以上に、恐らくその何倍も旧来のファンを失うだろう。それがわかっているのに「今の自分に正直に」なる理由はわからない。

それこそ、全体的な価値観の問題で。何をとるかだろう。アーティストとして自分の生み出す作品に満足できるかどうか。それは、何をもってして満足と呼べるのか。


ヒカルが次の15年を生きてデビュー30周年を迎える時、どちらの道を選んでいるかは興味深い。恐らく伝説として肥大化したファンからの期待に応え続けているのか、或いは、素直に自分自身の音楽的志向性の変化に従っているのか。

たぶん、最良の答は、「30年経っても10代の頃の感性を持ち合わせている」事だ。変わらなければ、いや、それを捨てていなければ、どうという事もない。しかし、それはどこまでコントロールできる事なのか、それはさっぱりわからない。でもヒカルなら、かわいいままおばあちゃんになっていくんじゃないかと思えてならない。そうなると相変わらず、多忙の中でぶっ倒れたりしていて、それって年齢を考えると随分酷だなぁとも思える。取り敢えず、桜流しまで聴いた感じでは、あの鋭利な感性は、やや質感は変化し続けているものの、ずっとキープしているように思える。あらゆる奇跡を支えているのは、この第一の奇跡だ。幾ら楽器が弾けようが歌が歌えようが、ここがなくては…そもそも音楽なんかやりたがらない、んだろうな。そうなったら引退しそうだ。それはそれで仕方がない…かどうか、次回はその話の続きから。