無意識日記々

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冷やしカプチーノ

照實さんが例の「差し入れカプチーノ」について某か呟いているようだが、はてどう解釈したものか。

いや、作りかけのもの、もうすぐ出来上がりそうなもの、というのは我々にとって大した意味は無いのだ。誰あろうHikaru自身が最もよく理解しているように、曲というのは最後の仕上げが最も難儀なのだ。無理難題と言ってもいい。

九十九里を半ばと思え」とは制作の話を指しているのかと思える。端からみたら「もう99%出来上がってるじゃないか」と周りから見えている場合も制作者からみたら「いや、これでやっと半分なんだ」となるのは、誇張でも何でもない。労力の体感々覚は本当にそんな感じである。

逆に、それを侮る人も多い。「もうこんな大きな氷塊が出来た。もう十分じゃないか。」―そんな風に言う人も居る。しかし、どれだけ氷塊が大きかろうと、水面から顔を出していなければ意味がない。100%とはまさに、やっと氷塊が水面上に「氷山の一角」を現す事を言う。沢山の人に届くのはその"一角"なのに。

"一角"をみて、「なんだ、そんな小さいもの。こっちの方がずっと大きい。」と水面下を指すのは大抵マニアだ。氷の大きさにばかり目がいく。人より目が利いてしまうから、水面下の大きさだってよくわかる。しかし、"世間の人々"にとっては、水面から上の方が世界だ。

いや確かに、本当に"一角"だけを、何かの力を借りてプカプカ浮かべている場合もある。そういうのは吹けば飛んでしまう。ヒカルの場合、氷塊を底から作り上げている。よって、出来上がったものは全く揺るぎない。そうやってPopsを作ってきたから、クォリティーが裏切らない。


なので、差し入れカプチーノに関しては、どこまで出来ているかという情報は、余り何かを期待出来る訳ではない。にじり寄るのは、ヒカルが本格的に仕上げに入った段階だろう。そこまでいけば"商品化"が視野に入ってくる。それまでは、趣味と変わらない。"仕上げのストレス"とヒカルが向き合うようになったら、それが復活の刻である。


まぁ、それはいい。照實さんが敢えてこのタイミングで呟いたのに他意があるのやら、ないのやら。もし何かのサインがあるとしたら、昨日梶さんの誕生日を祝っていたかどうかだろう。祝っていたなら、会っている。会っているなら、仕事の話だ。即ち、復帰か、他の、たとえば記念盤のような企画か。さぁ、どうだろう。場所がスタジオでヒカルも居たりしたら、もうダウト。

それはそれ、これはこれ。今までと、変わりない。大山鳴動して鼠一匹、ではないけれど、慌てず騒がずいようと思う。もう今の時代は情報操作をしようとしても疲れるだけだし、「決まったら発表する」というシンプルさがいちばんPreciousだ。こちらも、それを想定してシンプルで居ようと思う。言われるまでは、何も無いのだ。…そうやって自分を落ち着かせていないとそわそわし始めそうで、怖いんだろうな。笑っちゃう。あはは。