無意識日記々

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ララァとアムロとシャア、丈と力石と葉子。

ガンダムといってもファーストくらいしかわからない私。名古屋テレビ制作だったので観たのは早いんだが。

戦争ものなので色んな人が死んでいくのだが、いちばん印象に残っているのは何といってもララァだ。なんかもうこの名前を出しただけで総てを語り尽くした気分になってしまう。いわば私にとってガンダムとは殆どララァなのだ。

簡単に説明すると、主人公アムロ・レイの敵役シャア・アズナブルが囲っていた愛人がララァで、ニュータイプとしてアムロララァと通じ合っているのをみてシャアが焦ってアムロとやりあってるうちにララァがその喧嘩に巻き込まれて死ぬという、宇宙世紀云々を除けば昼ドラ的或いは民話神話的な展開である。それ自体はわかりやすい。

しかし、興味を引くのはアムロララァの意味不明な会話だ。結論は単純で「僕らは出会うのが遅すぎたんだ」と。惹かれ合うアムロララァ、蚊帳の外で焦るシャアの構図に社会的情勢が絡む中、突如ララァが消える事で生まれる2人の悔恨は凄まじい。どれくらい引っ張るかというと10年後に上映された劇場版「逆襲のシャア」まで引っ張る。10年はただの作者の時間だけど、兎に角映画のラスト付近で「まだ言うか!?」と思わずツッコミを入れつつ「でもララァってそういう存在だよねぇ」と妙に納得してしまっていた。

映画の最後に、シャアにとってララァがどういう存在だったかについて端的に簡潔に語られるのだが、それが結局この10年のテーマだったんだなと納得した。なお主題歌はTMネットワークだ。

で。このシャアとララァアムロの関係はまるでU3の3人なんじゃないかと、圭子さんが亡くなったとき思ったのだ。勿論照實さんとヒカルは喧嘩なんかしたりしないが、藤圭子を何らかの意味で取り合っていたという側面はあったのではないか。ヒカルとざねっちのどちらがシャアでどちらがアムロなのかは各自考えていただくとして、2人の物語は寧ろこれからな気がする。矢吹丈力石徹の幻影と終始格闘を続けたように、もう二度と会えないからこそ、届かないからこそ持続していく"想い"がある筈である。アムロとシャアが(特にシャアが)いつまで経ってもララァララァと想い続けたように、喪失の物語は届かない妄執を原動力として周囲を巻き込みながら突き進んでいく。最初に、周囲の情勢に巻き込まれていく形で悲劇に絡めとられていった物語からの言わば逆襲なのだ。矢吹丈も立ち直ってからは一心不乱に世界を目指した。力石徹を"取り合った"白木葉子も振り切って。その力の源が、どちらも喪失だったのだ。

しかしヒカルの場合、ヒカルが女性で、キコと出会い、ダヌパが生まれた。何かが変わったかもしれない。おじいちゃんは孫の顔を見てどう思ったのだろうか。物語はまだ始まったばかりである。