無意識日記々

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理由が壊れても歌うことに還ってきた人

『Show Me Love (Not A Dream)』が映画の主題歌になった事もあって「あしたのジョー」は毎度遠慮無く引用させて貰っている。ネタバレ全開で書くので未読の人は要注意。

初期の主人のライバルである力石徹が劇中で死んだ時に読者がリアルにお葬式を開いたという逸話が残る程社会現象化した漫画、それが「あしたのジョー」である。

毎度引用しているのは、力石徹の死ぬそのタイミングだ。矢吹丈がボクシングを続ける大きな、最も大きな理由だった力石徹が死ぬのはコミックス全20巻のうちの第7巻。大体全体の3割が終わった位のタイミングだった。残りの7割ではその目的を見失った矢吹丈が世界タイトルマッチにまで辿り着く様が描かれている。

圭子さんが亡くなったのは2013年の8月。ヒカルが30歳を迎えた後の真夏だった。人生100年と考えればちょうど3割が終わった所だ。

ヒカルが音楽に携わっていた大きな理由が母親であったのは周知の通り。憧れであり目指すべき目標、背中だった。人生の3割を過ぎた時点でその背中を喪った。そこから如何に生きるべきか。それが問われたのだ。

今のヒカルは健全に活動を続けてくれている。矢吹丈の方は力石徹を喪った後遺症で暫くの間人の顔面が殴れなかった。ボクサーとしては致命的であった。

ヒカルも『人魚』が出来るまではまた音楽が作れるだろうかと思っていたらしい。結果また作れるようになって『道』で『You are every song.』即ち「どの歌もあなただった」という悟り・気づきを得たわけだが、それは同時にあなたに留まらない歌も歌えるようになる(なった)事をも示唆した。

シンプルに考えて、息子が出来たから彼の為にも頑張ろうと思えたのがいちばん大きいのだろうが、以前は我武者羅に取り組んでいたライフワークの「理由」が喪われた時の狼狽が如何程のものなのか。それは人生において非常にクリティカルな問題だ。ヒカルもそれを克服出来たわけだが、そういった普遍的な局面を描いているから「あしたのジョー」は名作と言われているのかもしれない。

私からみると、力石徹死後の「あしたのジョー」はまるで蛇足で、矢吹丈がひたすら空虚にしかみえないのだが、自分の好きなキャラのハリマオーやカーロスはその後半に出てきたりもする。面白くない訳ではなく寧ろどんどん洗練されていくのだが、喪ったものはどこまで行っても取り戻せない、大事な何かに代わりなんてない、という真理を幼稚園児の私に植え付けたのは大きかった。

理由の如何によらず結局「する」のがライフワークだ。今のヒカルは歌っている。圭子さんを喪っても結局歌うことに還ってきたのだから、これはより強固なのである。継続の為には強い理由より、理由がなくてもやっているという“事実”の方がより大事なのだ。今のヒカルが歌うことに戸惑う事はそうそうないだろう。