無意識日記々

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喪失の物語その1

ダヌパも生まれておめでたいという事でのっそりとこの話題を持ち出そう。やっぱりヒカルにとって圭子さんの生前と死後という期分けは大変重要な意味を持っていると考えられる。

何事も自分でこなせてしまえるヒカルにとって、唯一と言っていい甘えられる存在であり憧れであり。そしてほぼ同じような人生を辿る中で強く娘である事を意識させられてきた、いわば生きる指標といえる人だった。その人が居る居ないは大きい。

2人の事を考えるとき、いつも漫画「あしたのジョー」を思い出す。私自身、生まれて初めて読破した長編漫画がこれだった(当時4〜5歳だったと思うが)ので思い入れの強さ故のバイアスがかかっている事を先に注釈しておくとして、主人公矢吹丈と作品序盤のライバル力石徹の関係性は、何かを失った時の人の生き方を強く示唆するものだった。

同作品の序盤3分の1までは彼ら2人の直接対決が叶う所までの話を中心に展開される。主人公矢吹丈はライバル力石に相対する為にボクシングに打ち込んでいたとすらいえる。そしてその直接対決を経て力石が死亡、矢吹は強い衝撃を受け生きる指標を失い物語の中盤は殆どそこから精神的に回復していく過程の描写で埋め尽くされる。

矢吹の場合試合中の事故が力石の死の遠因と勘ぐれる状況だった為自責の念が強い。それはヒカルと異なるのだが、その分を差し引いても、物語の後半3分の2で矢吹が立ち直って世界を目指す希望に満ち溢れた展開が待ち受けている訳ではない、ただただひたすらポッカリ空いた空虚を虚しく埋め続けても一向に埋まらないような感覚で物語は進んでゆき、最後は真っ白な灰になって燃え尽きる。相手の世界チャンピオンを巻き添えにして。その希望の無さ、救いの無さに幼い私は強い衝撃を受けた。今思えばこんな作品6歳以下に読ませちゃダメだろ。


多分、ヒカルは、空いた穴を埋めようとはしない方がいい。それはもう永遠に無くならない。それがかけがえがないということなのだから。空いた穴を眺めつつ、新しい人生を築いていけるか。矢吹丈も、自責の念さえなければ拳闘を諦めるというのもひとつの手段だったかもしれない。漫画作品的にはそれを「打ち切り」と呼ぶのだが、ちばてつやとしては新しい作品に取り掛かる機会を失したともいえるし、だからこそ稀代の名作が誕生したともいえる。

たかが漫画であり虚構ではあるが、「あしたのジョー」は名作と呼ばれるだけあって様々な示唆に富む。私自身付け加える事はそんなにない。生きる指標を喪った後にどう生きるか。次はファーストガンダムの話だな。