無意識日記々

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テレビンテージのアドバンテージ

そういやテレビの方もここ10年、キーワード予約みたいなものが出揃って、録り貯めたものの中から都度見繕って視聴する、という動画サイト閲覧と変わらないスタイルでの接し方が定着している。

しかし元々テレビの強みは「誰しもが同じ日同じ時間に見ている」事にあった。録画機能の発達でその醍醐味は薄れた。となると生中継こそがテレビの真髄、という事になり、スポーツの、特に日本代表の競技の生中継が高視聴率をとるようになる。

これも考えてみれば皮肉なもので。テレビはその未熟な黎明期、殆どが生放送だった。VTRを編集して流す為の技術と予算が足りなかった為だが、従って、テレビ番組の進化は如何に上手に編集するかに偏っていった。そうして突き詰めていった結果が今の「テレビの強みは生中継」という。

つまり、今のテレビの強みとは大層な放映権料を払えるその資金力にあるという事で、積み上げたノウハウやら何やらはもうさほど重要ではなくなった。成熟した技術を駆使した番組作りの数々は安心感は申し分ないがスリルには欠ける。確かに、メディアとしては老いているのかもしれない。

かといって、皆どうせキーワード予約録画で見るんだからと言ってしまうと総てがオンデマンドになり、もうそれは「放送」といえるのかどうか。いえるかどうかが大事かどうかもわかったものじゃあ、ありませんが。

ネット・メディアの人間からすれば、テレビの持つ求心力は羨ましく映るだろう。ネットワークという位だから中心部のない構造をもつ。したがってロングテールな細分化には強いが一極集中は生み出し難い。そんな中でMicrosoftAppleGoogleAmazonといった"巨人"も誕生している。

この観点からみると、宇多田ヒカルというアーティストは本来最もテレビと親和性の強い存在なのだ。本来は、ね。一極集中一点突破の出来るスケールを持っている点で相通じるものがある。

なのに両者の相性がよくないのは、テレビの方が老いていてヒカルの方が若かったからだ。テレビは電波を独占する事で一極集中を保ってきた。一方ヒカルは何もないところからまず歌の力で周囲を巻き込んで、そして肥大化していった。全く成り立ちが異なる。親和性といっても結果論で、既得権と実力という、相反する原因を持っている。

という事は、だ。もし今後ヒカルが老い始めれば、テレビとは本当に仲良くなれてしまうかもしれない。波長が合ってくる。実年齢の話ではない。生き方の次第の話だ。何歳になろうと、その瞬間の実力で勝負しているうちは人は老いない。そういう意味での若々しさである。そして、ヒカルの事だから、その瞬間の実力に満足出来ないとなったら引退を選択するだろう。結局、ヒカルとテレビの蜜月関係は幻だ。

ただ、テレビの方が若返ったら知らない。黎明期のような創意工夫が戻ってくればまた話は違うだろう。そうならないうちは、ほどほどの付き合いに留めておいた方が良いだろうね。