無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

公演後の幸福感と空腹感と立腹感

もうみんな忘れてる頃だろうから遠慮せず書くと、清原の保釈を生中継しようとしてた局があるらしく。私は直接観ていないので何の被害も受けていないが、本当に腹立たしい。そんなもの撮影したり放送したりするのは電波の無駄遣いだ。放送免許を…っていう展開がきっとメディアを快く思っていない権力側の思うツボなんだろうな。嗚呼、もう両方とも腹立たしい。ぽんぽん。(顔文字省略)

メディアの構造、というものは大ざっぱにでも把握しておいた方がいい。何故、名選手だったとはいえ元野球選手がここまでの関心を持たれるに至れたのか。全部端折ってしまえば、(これは過去にも書いた事があるが)プロ野球という興行自体が読売新聞の販促の為に生まれたからだ。プロ野球はメディアの手先なのである。なぜ読売がそんな事をしようと思ったかといえば、ライバルの朝日新聞が一足先に高校野球で販促に成功していたからだ。何故様々なスポーツがあるのに高校の部活の中で野球だけが特別扱いなのかといえば、朝日新聞の手先だから。あとは新聞社と出版社、ラジオ局、テレビ局の関係はWikipediaにも載っているから参照しておいて。

腹が減ってる時間帯は文が荒れてよくないなぁもう。

ヒカルが「点」と「線」を出したのはちょうどもう7年前の話だが、あの時「取次」というものが如何に重要なのか、というのをファンはちょっとだけ実感した。いわば、あの時のヒカルは出版物を「独立系」「インディーズ」の立場からリリースした。確かに、レコードの流通網と出版系の流通網は事情が違う。

今回、ヒカルが最初に使い始めた「全国網」はNHKと日テレ、つまり読売である。政府とプロ野球だ、いわば。そういうものとどういう距離感を取るかというのは、我々ファンが心配する事ではないが、背景に何があるか位は知っておいて損はない。

とは言っても、現場で制作に携わっている人間たちにそういった"政治色"がある訳でもない。お互いに利用し合っているだけ、とも言える。今回ニュース・ショウのエンディングに起用されたからといってそこに何らかの意図があったとは思えない。寧ろ、何かあったらヒカルは断っていただろう。「さくら並木プロジェクト」という選択をしたセンスを思い出して欲しい。

ただ、巻き込まれ事故は本当に勘弁願いたい。楽曲の番組使用の方法には条件がついている筈だから大丈夫だと思うが、包括契約を結べる大手は使い放題ともいえるんだし。

どうにも引っ掛かるのは、三年前の事。メディアへのヒカルの嫌悪感は消えたのだろうか。あの時は要らぬ身内(?)とのトラブルも露呈してしまって私もついつい「伯父」と「叔父」の使い方について説明してしまったが(要は「落ち着け」という意味だが)、冷静になってからも、「出棺に群がる報道陣」という醜悪な姿に対して何も思わなくなるというのは無理があるように思う。今回のヒカルのツイートからみればわかるように、ヒカルのお母さんへの思いの強さは何ら変わる事がない。あとは、いつもの、愛情が深すぎて冷静さとバランス感覚を欠くクセが治っているかどうかなんだが、そもそもそのクセ治す必要があるのかと言われると、確かにわからない。

NHKに対しても『ゼンセ』の件でみせた気概は凄まじいものがあった。勿論朝ドラのスタッフとは人間が被っている訳ではないが、巨大な組織とはその確固たる構造によって似たタイプの人間を量産する事を可能にしている。「企業体質」というヤツである。NHKは昔から特にそれが強い。非常に優秀な人間とどうしようもないバカが両方とものびのび生きられる組織なのだ。

世の中何が起こるかわからない。NHKのバカな部分が前面に出てくれば、今からだってヒカルが主題歌の使用を取り下げる事だって有り得る。勿論一時の感情の起伏でそんな事はしないが、アーティストやアスリートといった人種に対して組織ぐるみでリスペクトを欠く行為が出来るのが日本の全国ネットのテレビ局というもので、それはNHKも民放も変わらない。ヒカルはちゃんとビジネス・パートナーとして譲歩できる所はする筈であるが、驚くなかれ、そんなもの軽く突破する位にバカなのだ。いや本当に…。

不思議なもので、個々に優秀で人間的にも素晴らしい人材も幾らでも居て、こういう話(タイアップね)が成立している以上そういう人たちが出てきてヒカルとコミュニケーションを取っている筈だ。なので、今回書いた事は基本的に総て杞憂だ。まず間違いなく滞り無く話が進み、双方とも視聴率と売上をアップさせてWin-Winな関係となるだろう。この言葉そんなに好きじゃないけれど、取り敢えずそうなったらそうなったで何の問題も無い。

メディアは自分に都合の悪い事は言わない。だから互いに監視し合う事が大切なのだが、新聞の軽減税率の話をみればわかり通り、そんな自浄作用は期待できはしない。


我々は本来、ただ楽しんでいるだけでいい筈だ。しかし、何故かこうなる。カメラが棺に群がるのは、撮ったモノに群がる人々が居るからだ。我々である。楽しみなものがない時の、な。余程暇で他に何も面白い事がない時でない限り清原の保釈中継なんぞ観ないだろう。私がその時テレビを観ていたとしたら即座にチャンネルを変え…いやテレビ消すわなぁ…。


この構造は本当に難しい。我々は知らず知らずのうちに利用されている。誰が悪いという訳ではない。ただ、現実としてそうなっている。主体的に「より楽しいもの」「よりよいもの」を探し続けられればよいのだが、いつだってそれが出来ない程疲れているから、ただテレビをつけて流れてきたものを受け取って終わってしまう。それに慣れているから嘘だろうが信じてしまう。疲れていたら、嘘が本当かを疑うのすら面倒だからだ。

そういう意味では絶望的だ。特に対処法も考えつかない。できれば、テレビ消してヒカルの事だけを観ていたいのだが、ヒカルの歌が流れてくるのがテレビからなのでな。