無意識日記々

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都会と田舎

佐野研さんの話は、逆説的だが田舎から出てきた木訥な青年が都会の怖さを思い知ったような、そんなエピソードな気がしてきた。つまり、インターネットという都会に、広告業界という田舎から出てきて首を突っ込んでしまったと。無知とは恐ろしいもので、つまり画像検索の精度も炎上の性質も全然知らなかったのだ。木訥でも怪力なら問題を解決できるが、都会の論理はそうではない。人数と法と術策である。よく学者の世界は象牙の塔と揶揄されるが、インターネットというメガロポリスはそもそも象牙の塔が発端なのでこういう逆転現象が生じる。

今話した田舎と都会は比喩だが、ヒカルはずっとリアルな都会で暮らしてきた。日本アメリカイギリスというより、東京・ニューヨーク・ロンドンというのがよく言う組み合わせである。従って、昨年の結婚でヒカルが得た新しい視点は"田舎"だったのではないかと前に述べた。たぶん。

田舎というと二通りの解釈がある。お互い似通ったものだが。ひとつは今言った、都会の対義語としての田舎、そしてもうひとつは、実家や生家の在る場所という意味だ。ヒカルはその両方を手に入れたといえる。

珍しいといえば、珍しい。都会に生まれた人はそこで一生を過ごしたりする。"出て行く先"としてあるのはまた別の都会であって田舎ではない。生家という意味のいなかは都会にある。あぁややこしいなぁもう。

ヒカルがどれくらいイタリアの家で過ごしてきたかはわからない。或いはずっとロンドンに居たかもしれない。しかし、長さの如何にかかわらず(いや結構長さは重要だけどな)、田舎を実感できるようになった点は大きい。そこにどんな精神構造が広がっているか、何となくでも感じられるようになったのなら。

ただ、商業的な面でみると、うーん。日本の場合、先進国という面もあり、田舎は寂れる一方であり、都会は肥え太る一方だった。人口の供給源である田舎がやせ細ればやがて都会も、という事なので長期的にみれば都会も痩せるのだが、それは人口減少世代の宿命だ。

そういう流れとは別に、国際結婚をして子を生んだ。今のような億単位の人間が関わる話とはかなり桁が違うが基本はこちらである。1人々々の人生に焦点をあてれば、人口がどうのだなんて世迷い言でしかない。ただ、世の中には都会と田舎があると知る事は重要だ。ダヌパがどういう生き方をするのかは知らないが、母親が両方を認識していれば大分違う。

それは概念的なレベルでも、だ。デザイン村からインターネット市に無防備に出てきたらあの有り様。そうならないように注意するのは、母子ともどもだろう。このイシューは古いようで依然新しい。感覚だけは知っておく方が得策だろうね。