無意識日記々

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シンじて待つしかない、かな?

シン・ゴジラ」の「シン」には神や真や新などがあてられるという話だ。いつも通りの言葉遊びという感じだが、これが「シン・エヴァ」とも絡んできたりこなかったりとなると途端にややこしくなる。いや、そうなる事でよりシンプルになれる視点を探し当ててる事で庵野総監督の"意図"に近づける、と言った方がいいか。

「シン」という読みの漢字は多い。あとづけでどうとでもなる。だから、本来この名前に事前にこだわっても仕方無かったのだが、ゴジラのように他の作品も絡んでくるとなるとそうもいかない。明確で、あとづけではない意味を付与しておかねばなるまいて。

私はゴジラに詳しくないので(EVAだってよくわかってないけれど)、一般論で言うなら、タイトルが連関する、或いは譲渡されるという事態は、作家の作家性が作品より優先されている、とみるべきか。作家自身の私小説を複数のメディアで展開するようなものだ。これもメディアミックスと呼べるのかな。

どちらの作品も、監督1人の作家性に飲み込まれるような小さな作品ではない。宇多田ヒカルですら、その歯車のうちのひとつでしかないのだから。そういう意味ではチャレンジングであろう。

作品が巨大な故に、ウルトラCも想定され得る。つまり、庵野総監督がEVAから実質的に手を引く、というパターンだ。「シン」の冠をゴジラに託した時点で彼の作家性の表現は足りてしまった、と。EVAの巨大さは計り知れない。作家が誰であるか、必ずしも気にする必要は無い。動き出せば、樋口監督であれ誰であれ、完成してしまう。評価を受けられるかどうかは別にして。

一方、ゴジラもEVAも自らのうちに取り込んだとなると、周囲の人々は彼のストーリーに巻き込まれる事になる。ストーリーは、スクリーンの中だけでなく、現実にも存在する。いや、もっと言えば、銀幕と現実の間に境界がなくなるだろう。「そこまでして…!?」とも思うが、作家が命を賭けて取り組むとなると、そういうことになる。総てを巻き込んでストーリーは展開していく。


うーん、現時点で、わかることは、ないな。もう暫く様子見を、しておこう。