無意識日記々

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光の歌が物語を与えた

櫓っていう字、「上に魚、下にお日様、左に木」だと見るとかなり奇天烈な景色だけど「上に魚座、下に太陽、左に木星」だと(宇宙から見れば)綺麗にハマる。物事見方次第という事か。

そんな枕は本文とは全く関係が無く。

この日記では常々「物語をくれ」「ストーリーが欲しい」と懇願してきた。余り自らの人生を意味づけたがらないヒカルの代わり(?)に、これにはこんな意義がある、ああすればこんな影響が考えられる、といった"物事の見方"を提案するのがこの日記の(私が課した)役割である。ヒカル自身がそういうのを嫌がるまではいかないまでも積極的ではないのは、例えば母との歩みの相似など「運命」としか言いようがない事柄が黙っていても人生についてくるからである。意義付けや物語りなど、敢えてする必要もないのである。寧ろ、もうこれ以上背負わせないでくれという気分なのではないか。

で。そう言ってる割に私は、インストを好んで聴く時期があったりする。歌詞があるとどうしても人がそこに物語や意義を付与してしまう。そのリアルさが煩わしくて器楽演奏に"逃げて"しまう事が、よくある。

器楽演奏自体には、それはそれで物語がある。構成と展開である。それを楽しみに聴いていると言ってもいい。純化された物語といおうか、物語性を付与したがる人間がそこに居ない感じが、"本当の物語"をそこに顕現させているように思うのだ。

もっとあっさりした表現を心掛けるか。熱闘甲子園て番組あるじゃん。高校野球の裏には、こんな人間模様がありました。それを知った上で試合を見ると、どうですこんなにも感動的でしょう。そんな番組じゃん。時々ああいうのを見て「ほんによう頑張ったんやねぇ」と感情移入して貰い泣きする事もあるけれど、タイミングによっては煩わしいと思う事もある訳よ。「そんなん知らんでも野球は楽しい!」て言いたくなる時があるんよ。球を投げる、打つ、走る、捕る、追い掛ける。それ自体が面白い。バック・グラウンド・ストーリーとか蛇足だよ!って。それが私がインストを聴きたくなった時の気分なんよ。


つまり、器楽演奏自体に(或いは、野球の試合自体に)既にドラマがあるのだから、それでいいでしょってこと。貴方がいつも欲しがっている物語やストーリーは、もうそこにあるでしょうと。


考えてみたら、音楽においてメロディーってものが既に小さな物語。音が来て、また次の音、次の音。その高低前後強弱こそ音符の紡ぎ出すストーリー。それさえあれば、それ以上のストーリーは必要ない。

そう思えれば、それ以上のストーリーも、例え必要がなくても楽しめる気分になるので、また詞のある歌の世界に戻って来れる。これ以上ないシンプルなストーリー=メロディーさえあれば、私は既に満足していて、でもそれ以上も楽しめる。悪くない。よい。

いい曲がそこにあれば、もう力む必要が無くなる。それがつまりヒカルが教えてくれた事だ。例えば桜流しのメロディーがあったから、EVAQの重く当て処無い世界観も難なく飲み込めた(私は零時に先に歌を聴いたのである)。多くの人が「破の続きはどうなったの!?」と物語欠乏症に陥っただろうが、私は平気だった。歌が混迷の予告として機能した、という面もあるにはあるが、やはり、『私たちの続きの足音』と歌われてしまっては、そして、映画のエンディングがその歌詞と足並みと歩調を揃えててしまっていては、納得する以外に自然な方法は無かったのである。Casshernもそうだが、歌が強すぎるともうそこから物語を与えてしまえるのだ。物語に助けられて歌に感動できる、というのとはまるで逆である。スケールの大きさが桁違いで、発想はそうして逆転される。

光の歌は強い。ならば無理に物語を求める必要はない。歌が生む物語について語ったらいいんだ。今の私は過去になく肩の力が抜けている。