無意識日記々

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即座に前言撤回回

気にしない、と書いておきながらやっぱり気になるのでした。ヒカルにもう蟠りはないのだろうか?

どこの社のどの記者が、とは言わない。人の無責任な好奇の目を"擬人化した人間"は、最早独立した個人ではない。冷静に振り返れば、それは人として何ともやるせない。ある意味戦場に居る兵士と同じで、個としての感性を打ち消し自らを役割を演じる機械として扱わねば、母親を喪ったばかりの娘にあんな風に群がる事なんて出来ない。我々の好奇の目は斯様に、あそこまで醜いのだ。

結局ダイアナは死んだ。あそこまでの世界的スターがああなっても反省しない。ジャーナリズムに自浄なんて有り得ないのだ。腐敗は政治を呼び寄せる。お願いだから我々の自由まで奪わないでくれ。無責任な目は、まわりまわって自らを追い詰める。

ヒカルがもう吹っ切れてるならいいんだよ。時間も経ったし赦したというのなら。しかし、私はWebに蔓延る「当事者に聞いてないのに代弁者として振る舞う」態度には与しない。あクマで被害を被った当人がどう思っているかが重要だ。それ以外の擬似道徳的な発言には何も見いだそうとは思わない。

たぶん、記者たちも個々に話をしてみると何てことない普通の人たちなんじゃないか、と思うのだ。だから、彼らの個々に恨み辛みは無い。具体的な対象というよりシステムの取り決め全体と、何故かそこに宇多田ヒカルさんが取り込まれている現実に唸っているだけである。

それを望んでいるようには、どうしても思えないのだ。私生活を切り売りするような真似は、しない。していない。第一、ヒカルは週刊誌なんか読む習慣があるのだろうか。関わる人生だったのか。お母さん同様、関わらざるを得ない存在でしかないのではないか。

もう後戻りできないから、という気はする。望もうと望むまいともうこの知名度は消えないから。だからといって覚悟を決めてとか腹を括ってとかいう風にも見えない。自分を売り込む事もしない。

やっぱり、心配だ。だから、気にしない事にするのは、ある意味正しい。心配しても仕方の無い事だから。こちらから助言できる事も無ければ評価する事も応援する事もない。毎度書いているが、繁華街を歩いていてもしここに居る全員が自分の顔と名前を知っているかと思うとゾッとする。ヒカルはもう17年ずっとそれなのだ。信じられない。

その状況の17年の大ベテランに言う事なんて無い。ただただ、もうこれ以上メディア禍でヒカルが傷つく事が無いように祈るしかない。そしてこどもが出来た。どうやって守ろうか。わかんない。今のところ、露出無し。いいと思う。まぁ、彼が将来偉大な人にでもなった時の為にプライベートでは写真や動画を沢山録っておいてあげて欲しいかなとは思うが、それを他人に見せる必要は無い。

新しい局面で、「顔バレしたら本当に嫌そうな顔をするお母さん」を見つめていた自分と同じ眼差しが、今度は息子から向けられるのかもしれない。その時に、自分がどんな目で母を見ていたのか、そして、母がどんな風に見られていたのかを、それぞれ実感として感じる事になる。その時にヒカルがどんな感情を抱くかは、その時になってみないとわからない。