無意識日記々

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大衆の相対性

ポピュラー・ミュージック・アーティストを取り上げている都合上、当欄では大衆とか民衆とかいった用語を安易に用いているが、これが何を意味するのかは少々注意が必要だ。

大衆とは相対的な意味でしかない。特定の人間の集合を指してそれが大衆の総てだと言う事は出来ない。

誰もが何かの専門家である。その道に卓越しているかどうかという前に、毎日の生活の中で、何かについて偏っているのが人間だ。それは興味に応じてかもしれないし必要に応じてかもしれないけれど、熱心に取り組んでいるうちに否が応でも詳しくなる。思い入れも出来る。具体的な対象は個々に異なるがそういった状況にあるという点では皆同じだ。

大衆は無責任である。大衆とは、普段そういう風に入れ込んで詳しくなっているひとつのテーマに普段関心の無い人間の集合だ。即ち、ほぼ総ての人、圧倒的大多数の"無関心な人々"が大衆である。

即ち、大衆とはテーマ毎に対象となる集合が微妙に変化する概念であって、その都度、その時取り上げているテーマにそってチェックし直さなければならない。

こんな日記を書いている私は、一生「大衆として宇多田ヒカルに接する」事は出来そうもない。テーマによっては、そんなに大衆の事を気にせずに生きていく事も可能なのだが、何しろヒカルの(それなりに消極的に、或いは結果として積極的に)標榜するポピュラーミュージックというのは大衆に対して向けられたコンテンツなのだからどうしたって気にせざるを得ない。

勿論、大衆の殆どはヒカルに興味がないから無関係なのだが、その中で僅かだけ「今度の新曲いいね」と言ってくれる人々が存在する。そして、その僅かな人々の総数は、それでさえ我々「普段から熱心な人々」の数を大幅に上回る。

一方で、彼らは彼らで、普段は何かのマニアであって、それに関しては大衆ではなく、彼らからみれば私たちの方が大衆であったりする。常に相対的なのだ。

今は、二極化が進んで、大衆の無責任さは膨張し、マニアの熱心さは度を越すようになった。この二極化の中でポピュラーミュージックが居場所を見つけるのは大変な事だろう。そういう時は、普段関心を持たない何かを見つけてきてぼーっと眺めてみるのもいいかもしれない。くだらない、退屈だと自分もまたそのテーマに関しては大衆の一部だと納得する筈だ。そして、その後ろ体重を前のめりにするのが如何に難しいかを実感する事になる。いやまったく本当に、ポピュラー・ミュージック・アーティストとは因果な商売に手を染めてしまったものだなぁ。