無意識日記々

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キンタマをまだ引っ張る(痛い人)

ヒカルがどこまで考えていたかはわからないが、勝手に話を広げる事にしよう。

キンタマの美しさ」について考える時、前回述べた言語規制(放送禁止用語等)の問題として捉える他に、もうひとつ別の視点からも捉える事ができる。これも歴史の長い「芸術か猥褻か」問題である。

キンタマは性器であるから、これに言及する時は猥褻か否かの議論に成り得る。乳児の睾丸が性的な存在であるかどうかは難しいが、国や地域によっては幼児の性器の写真を所持すれば刑事事件に発展する事を考えると結構重大な問題が近くにあるといえる。或いはもっと単純に、乳児であれ幼児であれ女性器に言及したと考えれば、人によっては即座におぞましさを催すかもしれず問題意識としてはより明確になるだろう。

一方、対象の如何に拘わらず、美に言及するのは芸術の問題である。公序良俗に反するとされる猥褻と、人の営みの頂点に位置する芸術と、どちらを優先すべきかは難しい問題だ。

人間の文明を形成するファクターのうち、芸術は特別な地位を与えられている。他の文化との決定的な違いは、社会を構成する動機そのものを与えられるかどうかだといえる。作品そのものが、或いは作品を創造する営みが社会の秩序を著しく増大する方向に力を及ぼせる時その作品は芸術と呼ばれる。平たく言えば人間が社会的存在として生きる最終的な目的そのものを物理的に構成し得る何かである。

その見地に立てば、ただ赤ちゃんのキンタマが美しいと言っただけではまだ芸術的な立場にまではいかない。これに触発されて写真を撮るなり絵画を著すなり楽曲や詩を構成するなりして芸術への歩みが始まる。勿論該当ツイートを一編の詩と見なして芸術的作品と呼ぶ事も可能である。芸術的価値は最初は純粋に内的な動機に支えられるものだから。しかし、上記の通り、それが社会的権威を獲得しなければただの猥談として見下される可能性がある。ここが勝負のスタートである。

芸術が公共の福祉との兼ね合いと衝突する場面は多い。例えば死体をコラージュしたオブジェはどうなのか。人間の死体であれば許されないだろうが、それが犬や猫、豚や牛、鳥や蛙、虫や草花、となっていった時にどこに線を引くのか。三葉虫の化石が瑪瑙の石に封じ込まれている時、それに芸術的な価値を見いだす人は沢山居るだろうがそれは死体である。

斯様に、議論は難しい。今回のキンタマ美ツイートに関しても、初っぱなから「下品と上品の間」「まさにStay Gold」と核心をついた返信があった。まさにそこなのである。該当の呟きに対して、「そうそう、綺麗だよねぇ」と同意する者と「なんてこと言うの」と不快感を表す者と、両方が居る。ここから「芸術か猥褻か」の議論が始まるのだ。それは、ヒカルが前にツイートしていた春画展の日本での開催についての議論と同一線上にある。春画を誌面に掲載して人事沙汰になったのは何ていう雑誌だったかな?


そこまでヒカルが考えていてもいなくても、恐らく、今後も外せない論点だ。ヒカルは相変わらず「アウトかセーフか微妙な所」を探りに来ている。その挑戦者魂は、何も変わっちゃいないんだな。