無意識日記々

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狙いの的は外れて隣の的に当たる

安室ちゃん凄いな。iTunesStoreソングチャートのTop10中7曲が彼女の曲。1位はHero、2位にAAAを挟んでDon't Wanna Crx、 Can You Celebrate?…と続いてる。Top20までいくとTry Meまである。やっぱり報道量が段違いだったのか。これ、「CDは持ってる筈なんだけど探し出すのが面倒くさい」とか「もうCDプレイヤーがない」といううちら世代の人間がメインの購買層なのだろうか。米国ではストリーミングの隆盛でダウンロード販売は落ち込んでいるらしいが、日本は今こそダウンロード販売なのかもしれない。新曲より過去の名曲目当てで買う人たちをあてこんで。


でまぁ前回の続きなんだけど。

『Forevermore』の『あなた』はダヌパの事ではなさそうだが、着眼点は悪くない。今後、いや或いは既に、「息子に向けての歌」があるかもしれない。それも、ただ「ああ我が息子なんてキレイなキンタマなの」みたいな直接的な歌詞ではなく(直接的過ぎるだろ)、息子を恋人に置き換えたような歌詞に"偽装"した歌である。更にそこから性別転換して女子が男子に想いを述べる歌にすれば、誰一人としてその歌の歌詞の由来や成り立ちに気づけないだろう。ただ聴き流している限りは。

ただ、それは昔の話で。今のヒカルはその上、異次元の領域をいく。『真夏の通り雨』がぶっ飛んでいたのは、歌詞が母への哀悼歌と「中年女性が若い男に」な歌のダブルミーニングになっているだけではなく、その重層構造そのものが精神の成り立ちを示唆せしめている点だ。ダブルミーニングがただの言葉遊びに留まらず、"実際に人間の精神はその変換の過程を通して感情を創造する"事まで考えさせた。何かちょっと話の時空間が違う。

これは逆からいえば、人間の感情的精神は、"言葉遊び"から、言い換えれば、抽象性の飛躍によって生み出されている可能性がある、ともいえるのだ。

となると、今まさにヒカルは息子の子育てを通して人間の精神の変遷を目撃観察しているので、そこから歌詞の構成・飛躍的比喩・構造の移植・援用・流用を汲み取ってくる可能性がある。難しい事を抜きにして言えば、作詞テクニックのレパートリーが増えるのだ。即ち、ヒカルの歌詞はまだまだ進化するかもしれない。

その論点に気づかされたという点で、『Forevermore』の『あなた』は誰なのか?という議論提起自体に大きく意味があったと言えるだろう。新人さんてやっぱ滅茶切れ者なんでないの?