無意識日記々

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『花束を君に』と"君に花束を"と

「あさが来た」が終わりに近づいてくるのを見ながら今から「ととロス」の心配をしてみるなど。いや最後まで観てたらの話ですが。

まだよくわかっていないが、かの「暮しの手帖」を発行だか編集だかした人の物語だという話。ヒカルも結構感情移入出来るのではないか。定期購読誌となるとまた話は違うのだろうが、7年前にヒカルは編集長として「点」&「線」の出版に携わった。それまでの人生の中でいちばん多忙な日々を過ごしたという。一冊の書籍を世に問う迄にどれだけの労力が必要かを知っている身としては「とと姉ちゃん」に感情移入しない訳にもいかなくもないかもわからない。

女性の社会進出をテーマとして多く持ちながら長らく放送時間を「夫とこどもを送り出してやっと一息つけてる主婦」を想定して設定しているところにこの枠の意義があるのだが、ヒカルにはきっとずっと無関係な枠だったのではないかと踏んでいる。まず、この時間帯に起きてテレビをつけているか。つけていたとしてもNHKに行くかというと、ねぇ。更にそれが毎日ともなれば。とはいえテトリス・マニアである事を級友に隠していた経歴を持つのでまだまだ「実は」なカミングアウトが待ち受けているかもしれませんがね。

リベラル、という言葉が陳腐化して久しいが、若い子たちには「昇り調子の国」のイメージがわかないかもわからない。それこそ、我々が幕末の時代劇を見るような調子で戦後の復興の物語を眺めるだろう。「あさが来た」くらい古いとすんなり「昔はこうだったのか」と納得できる(いやでもフィクションですけどね)のだが、暮しの手帖の時代となるとどうだか。今と地続きな感触は、あるのだろうか。

花束を君に』のもつロマンティシズムは、その昭和っぽい雰囲気をうまく捉えている。ヒカルの曲であるという前提が必要だが、仮にタイトルが「君に花束を」だったとすれば、それは叶わぬ希望を歌った歌だった可能性がある。「君に花束を(贈りたかった筈なのに)」という具合だ。『花束を君に』だと、まず花束をサッと取り出してから「君に贈るよ」と差し出すような感触になる。誰の作品にでも適用できる感覚ではないけれど、ヒカルの歌詞だとこうなるのではないかと。

確かに、そういう希望に満ちた感覚だからこそ昭和の高度成長を目前にした空気に符合するようにみえる。それは、震災からの復興が軌道に乗ってくれればという希望にもまた重なるやもしれぬ。あからさまなロマンティシズムが反感を買う予感はあるにせよ、「そういうドラマだし」と庇ってくれる展開も予想できる。持ちつ持たれつ。出来ればしっかりタッグを組んでこれからの半年間を走り抜けてうただきたい。