無意識日記々

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Autogenesis After An Accession

さて、今度のアルバムは今まで以上にコンセプチュアルな匂いが漂う。『桜流し』『真夏の通り雨』『花束を君に』と3つ曲名を並べただけでアルバムに固有の"色"が見えてくるかのようだ。

今までも、そのアルバムなりのカラーというものはあった。しかしそれは、狙いを定めてというよりは、ヒカルが没曲も作らず(通算で僅か2曲)あまり昔のアイデアを引っ張ってきたりしない(『For You』や『テイク5』も、完成品をとっていた訳ではない)為、自然に「その時期の宇多田ヒカル」が反映された結果という事が出来る。ある程度コンセプチュアルにみえても、それは意図的ではなく結果論である、と。

しかし、今回は様子が違う。今のところは。先立つ3曲のテーマは完全に『喪失』で統一されており、もしこのテーマの曲がフル・アルバム中この3曲のみならば、浮くだろうねアルバム全体の中で。

そこで、ヒカルがアルバムというものをどのように捉えているかといういつもの問いに戻る。恐らく、「いつも通り」だろう、いつも以上に。というのも、『通常盤仕様1形態』だからだ。奇を衒わない、王道を行く。寄り道も道草もせず堂々と真ん中の最短距離を行く感じ。ありきたりなフォーマットにして、完全に中身で勝負、歌で勝負。それが今回の狙い。コンセプトと言えるものがあるとすればまさにそこだろう。

であるから、ヒカルはいつものように、予めコンセプトを決めてアルバムの全体像から作る事はせず、一曲々々を丁寧に仕上げる事にだけ注力していると推測する。あの『HEART STATION』ですら、曲順を決めるのは他の2人のプロデューサーに託した程だ。ひたすらまず曲を仕上げる。それしか無いだろう。

そういう態度でずっと来ていれば、逆に、複数の曲で同じテーマを扱うというのは不思議な気がする。いつも、「Utada Hikaruは新しい音楽のプチ・ジャンルを開発し、そのジャンル下の最高傑作を最初に作って去っていく」と私は書いているが、であればつまり、そこに描くべきテーマはその都度曲が完成する度に描き切って出し切ってしまって、次に他の曲を作る際には引き摺らない、作詞作曲は常に、曲毎に新しい生命を生み出すように為されている、そういう風に解釈してきたのだ。

となると今回のアルバムは何になるのであろうか。連作なのか、或いは、Hikaruにしては珍しく、ひとつの曲に総てを込める前に完成品として世に出してしまったのだろうか。


ここからは完全に妄想である。今のHikaruは、もしかしたら、まだ今の自分の力量に追い付き切っていないのではないか。特に、母を喪った事によって掻き立てられた感情は、今までにないレベルにまでヒカルの心を押し上げてしまっていて、その心的経験とその表現としての作詞と作曲が、まだまだ発展途上にあるのではないか、ならば、その、自分自身の認識を超えた所にある楽想たちは、まずは今自分が見えている分の感情を曲としてカタチにした後で、その曲を両手で抱き締めた後初めて見えてくる景色というものがあって、次の曲とは即ち、その見えてきた次の景色との"格闘"によって又生まれてきているのではないか、そしてそれを、詞と曲で表現した時に、今目の前に見えている景色と昔見た景色が繋がっている事に、その時初めて気がつくような、そんな流れの中で楽曲が生み出されてきているのではないか、そんな想像が今、私の中で広がっている。

実際、『桜流し』が作られたのは母を喪う以前の話だ。なのにその後作られた『真夏の通り雨』と『花束を君に』がなぜここまで『桜流し』と呼応し合うのか、『SAKURAドロップス』と繋がる景色がみえてくるのか。何か、そこに、ヒカル自身のやり方は変わっていないのに、結果出てくる音楽が今までにない生命的な繋がりを持って生まれてきているのではないかという気がしている。さて、本当の所はどうなのか、10週待てば答が出る。ひとまずその時まで生き残りませう。