無意識日記々

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誰の彼女が電気鰻の夢を覗いたか

『俺の彼女』は語るべきところが多過ぎてどこから手をつけたらいいかわからない。まぁそれはどの曲も同じなんだが、この曲は特に。

昨夜の「News Zero」でのパフォーマンスは素晴らしかった。どうもこの『真夏の通り雨』は直立不動で歌うイメージで居たからピアノの弾き語りと知って面食らったが、なんの、なんの。非常に集中力が高かった。生の歌唱でも(番組は収録ですが)あの新しい"丁寧な発音"を堪能する事が出来た。当たり前だけど、ちゃんと歌えるもんだねぇ。

生歌でのアプローチ、という事でいえば、『俺の彼女』は一体どうなるんだろうという期待はある。男役と女役を歌い分けるのに、ステージをどういう風にアレンジするか。ミュージカル風とすら言われる同曲の齎す見所のひとつだろう。

そうやって男側の言い分と女側の言い分をわけて、指ぱっちんサウンドで詰め寄られるとどうしたって"Poppin'"を思い出してしまうのだが、そちらはLIVEでは普通に歌って普通に盛り上がっていた、というか元々LIVE向けの曲なのだ。どうしたってGirlsの勢いがついてBoysが肩身の狭い思いをするのは仕方がないのだけれど。

『俺の彼女』は、その点、どこか"芸を見守る"感じが出てきそうな気配がある。息を詰めるようなというか、楽曲に独特の緊張感がある。

ヒカルがこんな風に男役と女役を演じ分けるのは珍しい。というか初めてかもしれない。

勿論、『光』と『Simple And Clean』という代表曲中の代表曲をはじめとして男の視座と女の視座の両方が歌われる歌は幾つかある。しかし、そこでは極端な歌い分けをしていない。恐らく、聴き手の感情移入を阻害しないように、各々の立場で自由に解釈して貰う余地を与えているのだろう。「これってもしかして」程度に思って貰えるように調整しているのだ。

翻って『俺の彼女』には、余地がない。歌い出しからの暫くは正真正銘の"男"だし、その後に続くのも正真正銘の女だ。これはある意味当然で、タイトルが『俺の彼女』だから、はぐらかす意味がほぼないのである。『俺』という一人称も珍しい、というか初めてかな、だし、かつて『日曜の朝』で『彼氏だとか彼女だとか呼び合わない方が僕は好きだ』と歌った人がいきなりタイトルに『彼女』を使ってきているのだから、「何か特別なもの」「何か新しいもの」が出てくるのではと感じさせる。果たして、結果は斯様な名曲である。

聴き手は、その新鮮さに引っ張られる形で、この楽曲の歌詞のもつレトリックな構成に引っ張りこまれていく。その詳細について分析するのは…とても時間がかかるのでまた稿を改めて。そうこうしてるうちにどんどん時間が過ぎちゃっていって、どしたものか。